鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
244/620

⒄ 大倉絵二十六及び絵八十二。⒅ 根津一〇〇二四⒆ 例えば、南北朝時代の法起寺本と室町時代の松尾寺本。⒇ 阿部龍一「玄奘三蔵の投影─「真言八祖行状図」の再解釈」 佐野みどり、 加須屋誠、藤原重雄 ■ 十四世紀初期の「玄奘三蔵絵」における朱袈裟の使用が持つ、制度的かつ教義的な意義は、筆⑻ 原瑛莉子「釈迦十六善神像にみる玄奘三蔵像の変遷」 奈良国立博物館・朝日新聞社編『天竺へ:三蔵法師三万キロの旅』、2011年、216−219頁及び佐藤大「釈迦十六善神像の図像に関する考察─南都系を中心として」『鹿島美術研究』年報第24号別冊、鹿島美術財団、2007年、234−241頁を参照。⑼ 前掲注⑻佐藤、237−238頁。幽玄齋選、富山美術館編 『佛教繪畫』富山美術館、1986年、213−⑽ この図画は、「真言八祖行状図」(国宝指定)として知られる八幅一組の図画の中の一幅である。玄奘が天竺に旅した時には、龍智はすでに数百歳であったため、玄奘と龍智の邂逅はおそらく起きていない。この物語の典拠は、玄奘が磔迦の大菴羅林において非常に高齢で匿名の僧と出会ったという、『大慈恩寺三蔵法師伝』(『大正蔵経』五十、二三二 a)のエピソードのひとつであるように思われる。「唐故三藏玄奘法師行状」(『大正蔵経』五十、二一五c)と「續高僧傳」(『大正蔵経』五十、四四九a)といった、玄奘の物語の後世の翻案は、その僧を龍智と明示している。⑾ この童子をともなう玄奘の図像は拡大され独立した図像として米国メトロポリタン美術館本の大型の「玄奘三蔵像」(受け入れ番号 29.160.29)に使用された。メトロポリタン美術館はこの図画の年代を十四世紀で鎌倉時代とするが、図画の大きなサイズ、風変わりな構図、そして絹に関するいくつかの特質から、現在の状態が完全に原画そのものではなく、より後世の年代比定を考慮すべき可能性がある。⑿ 根津一〇〇二三⒀ どちらの物語も、この出来事に対する『大慈恩寺三蔵法師伝』の簡潔な描写(『大正蔵経』⒁ 『阿娑縛抄』「又云。以七髑髏為瓔珞謂玄奘三蔵七生渡西天髑髏也。」高楠順次郎・小野玄妙編『大正新脩大蔵経図像』大蔵出版、1934年、巻九、五二三a(以下『図像』)。『覚禅鈔』「神頸懸七髑髏。是玄奘七生之首也云々。」 (『図像』、 巻五、五六一b)。⒂ 前掲注⑴、33頁参照 。⒃ 『西遊記』では、深沙神は観音に、これまで流沙を越えようとした多くの人々を喰い、その骨を流沙河に放り込んだが、九人の巡礼の髑髏だけがそうしても沈まずに浮かび上がってきたので、とても特別な髑髏だと思い、ひもでまとめて暇な時には手慰みにしていると語っている。― 234 ―参考文献論文阿部龍一「玄奘三蔵の投影─「真言八祖行状図」の再解釈」 佐野みどり、加須屋誠、藤原重雄編『中世絵画のマトリックスII』 青簡舎、2014年、193−253頁。214頁。五十五、二二四b)に起源を持ち、『今昔物語』天竺の巻にもあらわれる。編『中世絵画のマトリックスII』 青簡舎、2014年、193−253頁。者の博士論文にてさらに論じられている。

元のページ  ../index.html#244

このブックを見る