鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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大きなものであったことが想像できる。さらに、本コレクションにおいて貴重なのは、コレクションの蒐集過程を辿ることのできる購入記録などの資料が現在まで残されていることである。これらの資料を調査・分析することにより、当時のナンシーにおけるジャポニスムを巡る社会的環境を分析することができる。国立ナンシー美術学校の成り立ちまず、本学の成り立ちと19世紀末のナンシーにおける役割について考えたい。本学の起源は、パリやローマのアカデミーを見本にロレーヌ公レオポール1世が1702年に絵画彫刻アカデミーをナンシーに設立したことに始まる(注17)。19世紀初頭のフランス革命の混乱を乗り切り、また1870年に勃発した普仏戦争により多くの知識階級や芸術家がドイツ領ストラスブールからフランス領ナンシーへと流れ込むことにより更なる発展をとげる。1881年には中央政府より正式に地方美術学校に命名される。当時の学長であったテオドール・ドゥビリー(注18)は、「才能豊かな一握りの学生を育てることに執着するよりも、僅かな才能をもつ大多数の生徒を産業美術の中に職業を見いだすように激励する」(注19)教育方針をとった。また、1880年にはジャコ賞(注20)という秀でた産業応用美術のデッサンに対する賞が校内の生徒を対象に設けられた。このことから、装飾美術という美術と産業の狭間で発展する19世紀後半のナンシー派の美術を、根底から支える職人たちを輩出することを本校が目的としていたと解釈することができるであろう。実際に本校で学んだ生徒たちの中には、ドーム社の装飾家として活躍したアンリ・ベルジェ(注21)やガレの重要な協力者であったルイ・エストー(注22)、ルイ・マジョレル(注23)など後のナンシー派の中心的人物たちもいた。1886年にドゥビリーが亡くなると、後任にはジュール・ラルシェ(注24)が任命される。ラルシェは、パリの美術学校でレオン・ボナ(注25)のアトリエで学び伝統的な静物画〔図1〕で知られていたが、1884年にナンシーに戻ってからはマジョレルの元で特に東洋漆を真似たベルニ・マルタン家具の装飾を担当している(注26)。美術学校の日本美術コレクションは、このラルシェの在任中に形成されている。ラルシェは、前任のドゥビリーの教育方針を引き継ぎ産業応用美術に力を入れるが、中でも「装飾における植物の役割」を生徒たちに強く訴え、多くの植物デッサンをさせた(注27)。ガレやマジョレルのようなアーティストたちと交流があったことを考えると時代の要請としてそのような植物デッサンへの強化が求められたとも考えられる一方で、このような学校の教育方針がナンシー派の一つの特徴になりつつあった植物文様― 15 ―

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