― 240 ―である。木檜は、明治末から昭和戦前期の洋家具、特に木製家具の製造、設計における第一人者として、全国の洋家具生産の業界で代表的、指導的立場にあった人物であり、理論だけでなく実際の現場にも精通し、技術面だけでなく造形の面にも深い理解があった。大正期のデザインにおける大量生産を検討するにあたり、第一線で活躍し、官民広く指導の役を担った木檜の論は重要かつ代表的対象といえるだろう。これまで、木檜については、その生涯と業績及び生活改善運動における木檜の主張が明らかにされてきたが、具体的事例による木檜の論の詳細や意義は明確でなく、大量生産の唱道者としての側面もいまだ論ぜられていない(注3)。また、生活改善運動における家具の改善についてはこれまで概説されるに留まり、大量生産と関連付ける視点も検討されていない。以上から、本論は、木檜恕一の家具の大量生産論を取り上げ、その背景に木檜も深く関わった同時代日本の生活改善運動を指摘し、その家具の造形の在り方を、当時の新しい社会的価値観、美意識と関係付け、大正期の大量生産論の特質として提示する。なお、大量生産(mass production)という言葉の定義に関して、分業体制による工場生産、専用工作機械、互換性部品の使用、科学的管理、大量流通の仕組みなどが挙げられ、また、研究領域により相違もあるが(注4)、本論では、意味を広く取り、工場での分業による機械生産とそれによる量産体制を中心に捉える言葉とする。1.生活改善運動と木檜恕一の家具の大量生産論の関係木檜恕一は、明治41年(1908)、東京高等工業学校附設教員養成所建築科本科卒業と同時に同校附設徒弟学校木工科家具分科主任に就任、大正6年(1917)、東京府立工芸学校教諭に就くと家具製作科科長となり、大正8年(1919)には同科を木材工芸科に改組、大正10年(1921)には、翌年に開校を控えた東京高等工芸学校設立に際して、木材工芸研究のため、文部省在外研究員として欧米へ派遣された。帰国後、大正12年、同校教授に就任、翌年、木材工芸科科長兼工場長を命ぜられた(注5)。木檜は、木工の工業化と工芸化を一生の仕事としたが(注6)、特に洋家具は、木檜が母校校長手島精一により建築からの転向を薦められた分野であり、木檜の仕事の中心を成している。木檜は、欧米留学以前から、家具の大量生産を唱えている。この背景には、1920年前後から顕著となった生活改善運動を指摘できる。1920年前後から、生活改善の動きが社会的動向として現れる。この生活改善運動(注7)が目的としたのは、和洋二重生活からの脱却、つまり、それまでの日本の生活様式から西洋式の生活様式に転換することであり、「中流階級」として当時台頭著
元のページ ../index.html#250