鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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を重ね、相互の影響関係のもとで作品を制作する(注3)。こうした状況にあって、1913年にデュシャンの《階段を降りる裸体No.2》〔図1〕が国際モダン・アート展(通称「アーモリー・ショー」)に出展され、1917年にはリチャード・マット名義で制作された《泉》〔図2〕がインディペンデント・アーティスト協会(アンデパンダン展、ニューヨーク)より出品を拒否される。アメリカで初めて紹介されたデュシャンの作品である《階段を降りる裸体No.2》は、既存の芸術的価値観にそぐわないものとして批評される一方、その後のニューヨーク・ダダの活動精神「反芸術」を方向付けるものとして一定の影響力をもたらした。また、既製品の男性用小便器を用いた《泉》は、芸術の文脈に芸術家の手仕事に依らない既製品を配置することを通して芸術を成立させる枠組みを問題化し、レディ・メイドの象徴的な作品として機能することとなった。「レディ・メイド」と「オブジェ」について、後年のデュシャンは自らの作品をレディ・メイドとして認識するようになったのはアメリカに渡った1915年以降であり、レディ・メイドが「視覚的無関心」と「趣味の欠如」による選択の結果であること、を強調し、レディ・メイドの生成をオブジェの選択として認識していたことに言及している(注4)。本論ではこのデュシャンの認識を踏まえて、特に1915年以降のレディ・メイドとオブジェによる作品を取り扱う。この過程では、マルセル・デュシャン、マン・レイ(Man Ray 1890−1976)(本名 Emmanuel Radnitsky)、エルザ・フォン・フライターク=ローリングホーフェン(Elsa von Freytag-Loringhoven 1874−1927)(通称「男爵夫人」、以下では通称を使用)のポートレートとオブジェを使用したポートレート作品について、1920年以降に登場するデュシャンの別人格であるローズ・セラヴィ(Rrose Sélavy)との関連を参照しつつ、分析する(注5)。2.マン・レイの作品を通してユダヤ系移民の家系でアメリカに生まれたマン・レイは、ヨーロッパとアメリカのモダニズムの発展期である1910年代初めに芸術家としての活動を開始、最新の芸術動向に接しながら活動を続けるなかで1915年にデュシャンと出会った。《セルフ・ポートレート》〔図3〕は初めて公開されたマン・レイによるアッサンブラージュであり、パネルにドアのアーチ柱とわき柱が描かれ、キャンバスの黒で着色された部分に2つのベル、白色部分の下部にはベル用の押しボタンが設置され、中央の部分にマン・レイ自身の手形が押されている。中央の手形は芸術家の手仕事への嘲笑を含む署名でもあり、フランス語のmain(手)と自身の名Manをもじった署名で― 251 ―

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