鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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3.男爵夫人の作品を通してィを表す試みがなされたことは興味深い。ドイツの小村に生まれてベルリンに出奔し、やがてニューヨークにやってきた男爵夫人は、二度目の夫(男爵)を亡くした後ほどなくして、奇抜な出で立ちやヌードにてパフォーマンスを行う「男爵夫人」として知られるようになる。ニューヨークに暮らした1913〜23年の10年間に、彼女はグリニッジ・ヴィレッジに集う芸術家と交流を重ねた。1915年にニューヨークを訪れたデュシャンも、男爵夫人によるファウンド・オブジェクト(found object)と出会い、レディ・メイド創作のきっかけを得たとされている(注11)。男爵夫人による《神》〔図6〕は、金属製の曲管に排水弁が付いたものを留め継ぎ箱に取り付けたもので、曲管の一方は天を指している(注12)。ダダ期の芸術においては、デュシャンの《泉》をはじめ、トイレをはじめとする手洗いの道具がその芸術のあり方を象徴するかのように多用されており、男爵夫人もこの文脈において制作したであろうことは想像に難くない(注13)。《神》においては、そのタイトルに対して全知全能の神が身体を有することでその神聖さを奪われ、その身体は日常的に排水を行う構造物として表される。この聖俗の結合はデュシャンの《泉》によっても共有されており、その制作背景を踏まえた解釈においては、その配置と形態から「仏陀」や「聖母」を想起させるとされた(注14)。このことを踏まえるなら、ここで便器を逆さにすることは、もとの「便器」としての機能を保持したまま、それを宗教的偶像という聖性を有する存在の似姿として機能させることを意味しており、聖性とかけ離れた人間の排泄に関わる事物を聖性に転化するこの行為は、偶像破壊的でもある。また、この便器への署名「R. Mutt」と便器に貼付された許可証の住所を巡って、女性作者を想起させるという指摘がある(注15)。こうした指摘は、本来は男性性に属する事物をそのフォルムと設置状況、署名や来歴を通して女性性を併せ持つものとして読み解くことを可能にしている。ここで《神》を見直してみると、その構造により日常における道具としての役割は放棄され、実際の排水は不可能である。《神》における管の構造を「ファルス」と見なす解釈を踏まえるなら、この捻じ曲げられた管は男性性の不全を意味するものとして捉え得るのではないか(注16)。先行研究において、両作品はレディ・メイドとして位置付けられるものの、差異化されている。《泉》がモダニズムの文脈で革新的な意味をもつ反芸術的なオブジェであり、性的なニュアンスをはらんだフェティシズムの対象として機能する最初期のレ― 253 ―

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