ディ・メイド作品として参照されるのに対して、《神》はモダニズム以前の芸術の形態を保つものとされ、16〜17世紀にかけてアフリカとの奴隷貿易でもたらされた「他者性」に対するのと同様のフェティシズムを喚起する「野蛮な」作品であるとされた(注17)。この指摘を踏まえるなら、《泉》と《神》はともに伝統的な芸術とその制度を逸脱する構造を有しており、作品のはらむ性的なアイデンティティを攪乱する役割を果たしているといえる。続いて、男爵夫人によるアッサンブラージュ《マルセル・デュシャンのポートレート》〔図7〕に目を向けてみよう。ワイングラスに羽や機械の歯車、時計のバネ、疑似針、鶏の骨、指輪、などが詰め込まれたこの作品は、日常的な雑貨を含む断片化された事物の寄せ集めであり、《神》と同様にデュシャンによる工業製品を用いた理性的なレディ・メイドの作品とは異質なものとして指摘されている(注18)。まず、この作品における個々の事物の帰属を確認すると、羽や指輪等は女性性に帰属するもの、機械の歯車や時計のバネ、疑似針等は男性性に帰属するもの、とみなされる。男爵夫人は自身の事物であることを想起させる要素によって作品に介入し、中央に起立した直線状の構造物の下部に巻き付いたらせん状の部品、頂上部分の一部に用いられた羽、を以て男爵夫人の女性性が男性としてのデュシャンの表象にも関与している。中央に立ち上がる棒状のものにらせん状の構造が巻き付き、ブーメランの形状をしたものと羽とを頂いて直立した構造は、男性主体としてのデュシャンを象徴するものである(注19)。このことを踏まえるなら、この作品はデュシャンのポートレートであると同時に男爵夫人のセルフ・ポートレートとしても機能しており、このアッサンブラージュとしてのポートレートにおいては性的なアイデンティティの多義性が示されていることが確認できる。4.ポートレートとローズ・セラヴィオブジェ・ポートレートと同時期のデュシャンのポートレートについて目を向けるとき、デュシャンの別人格として認識されてきたローズ・セラヴィの存在を見過ごすことはできない。ローズ・セラヴィは、作品のモデル、銘や署名、作り手、に分類され、女性として化粧をし、女性用の衣類やアクセサリーを身に着けたデュシャンをマン・レイが撮影した《ローズ・セラヴィとしてのマルセル・デュシャン》〔図8〕等として現れた。彼女の誕生経緯について、名前と民族、宗教に加え、性別の変更がもたらすアイデンティティの抜本的な変更を期待したと語ったデュシャン自身の発言に加え、ユダヤ系移民の子孫であるマン・レイのアイデンティティや、ニューヨーク・― 254 ―
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