5〕。これらの図案集が明治に入り頻繁に出版された背景には、明治の東京遷都により宮家などの主要な芸術支持層が京都から去り、仕事を失った画家たちの糊口を凌ぐために図案集を制作させたとされる(注32)。これらの図案集がフランスへと輸出された背景には、京都というかつての日本の美術工芸の首都が失われつつあった栄華を、図案集の海外輸出などにより復興させようとした努力を垣間見ることができる。また、さらに興味深いのは、これらのナンシー所蔵の図案集の幾つかにその販売元のパリの老舗デパート、ボン・マルシェのシールが貼られていることである〔図6〕。ナンシー市立図書館所蔵の版本類の中にも同様のシールがあることから、ボン・マルシェを通じてかなりの数の版本がナンシーに辿り着いたことが想像できる。京都美術倶楽部取締役などをつとめた美術商の林新助は、早くから海外進出の必要性を感じており、1870年にはフランス「ボンマルシ商会」とも売込特約を結んでいる(注33)。ボン・マルシェがフランスのジャポニスムの普及に果たした役割は大きいが、このテーマに関しては未だ調査研究の対象となっていない、今後さらなる調査を進めていきたい。美術学校のコレクションの購入元を分析すると1890年代は主にパリの美術商(注34)から購入しているのに対し、1900年に入ると地元の美術商(注35)から購入をしている。このことから、20世紀に入るとフランスの地方都市においてもジャポニスムがかなり波及していたことがわかる〔図7〕。最後にこれらのコレクションの美術学校における利用方法についての考察を加え結論としたい。19世紀後半のナンシー美術学校では、「古代・自然描写」「装飾創作」「建築産業」の三種類のデッサンの授業を行っていた(注36)。これらの授業で実際に制作された生徒たちのデッサンが現在も学校に残されている。「古代・自然描写」と「建築産業」のデッサンがどちらかといえば従来の教育制度の伝統を踏襲しているのに対し「装飾創作」においては、特に1893年以降は植物デッサンのみを教えていたようだ。この中の幾つかは明らかに日本の版本などの植物を手本にしており、伝統的なフランスの植物モチーフとは明らかに異なる平面的に描かれた菖蒲などがかなりの数見受けられる〔図8〕。年代とも考え合わせると「装飾創作」の授業において生徒たちの見本のために日本美術コレクションが購入され始めたことは明らかであろう。実際に生徒たちはこれらの日本的な植物モチーフを、西洋的な芸術の枠の中で組み合わせることにより19世紀末に花開くナンシー派らしい作品に仕上げている〔図9〕。その後のナンシー派の大アトリエに職を見つけてゆくアーティストたちが本校で学んだ非常に日本的な「装飾創作」のモチーフが、19世紀末から20世紀初頭にかけてのア― 17 ―
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