鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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― 265 ―結び《天国の門》の「ソロモン王とシバの女王の会見」場面の図像的源泉として、ローマのオルシーニ邸からフィレンツェへこの図像が伝わった可能性はあっただろうか。オルシーニ邸の《著名人伝》は1432年までには完成した。《天国の門》の下絵は1425年頃から始まり、1435年頃には終了したと考えられ(注30)、「ソロモン王とシバの女王」の会見場面の浮彫は、1439年頃に一部完成していた(注31)。制作時期の点からは、ローマからフィレンツェへ図像が伝わる時間はあったと思われる。交友関係では、オルシーニ枢機卿は1434年、エウゲニウス四世とともにフィレンツェに滞在しているが、それ以前からニッコロ・ニッコリとは交友があった。ニッコリは枢機卿のために写本を制作しているのである(注32)。トラヴェルサーリもまた、オルシーニ枢機卿がフィレンツェへ移る以前から、枢機卿からギリシア語原典を借りて翻訳を行っている(注33)。トラヴェルサーリは、東西教会の統一や教皇と公会議の権威をめぐる対立問題に深く関わり、オルシーニ枢機卿と同じ問題に直面していた。オルシーニ邸の《著名人伝》には、四人のギリシア教父とラテン教父が含まれているが、これにはトラヴェルサーリの影響がみられる(注34)。《天国の門》のプログラムを考案した人物は特定されないが、先行研究ではブルーニやニッコリ、そしてトラヴェルサーリなど人文主義者たちの名前が挙げられている。フィレンツェの人文主義者たちとオルシーニ枢機卿の交友関係から、《天国の門》のソロモン王とシバの女王の図像が《著名人伝》から取り入れられた可能性は考えられるのではないだろうか。《著名人伝》サイクルの中に、「唯一の教会と一人の指導者」を示そうとするオルシーニ枢機卿の意思が表れているならば、ソロモン王とシバの女王の図像を、東西教会の再統一の寓意として《天国の門》に取り入れた理由を説明できるだろう。《天国の門》の「ソロモン王とシバの女王の会見」は、それまで存在しなかった図像が東西教会の寓意として新たに創案されたのではなく、オルシーニ邸の壁画《著名人伝》に先例があったことを指摘するのが本稿の意図であった。注 ⑴ R. Krautheimer, Lorenzo Ghiberti, Princeton, 1970(2nd), p. 180.⑵ パルマ洗礼堂には、北扉口タンパンの「マギの礼拝」の両脇にベネデット・アンテーラミ制作のシバの女王とソロモン王の彫像が並ぶ。パルマはアルプス以南であるが、パルマ洗礼堂の図像や彫刻の配置はフランスの聖堂からの影響が指摘されるため、純粋にイタリアの作例とは言い難い。現在2体の彫像は司教区博物館に所蔵され、洗礼堂にはレプリカが置かれている。

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