鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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 ■飾北斎の相撲絵に関する研究研 究 者:横浜美術大学 美術学部 専任助手  大久保 範 子はじめに今日最も有名な浮世絵師のひとりである葛飾北斎(1760-1849)は、その長い画業においてあらゆる画題を多彩に描き、独自の視点を反映させた作品を展開したことで知られる。北斎が勝川派の絵師「春朗」として作品を発表しはじめた安永末は、寛政へと続く浮世絵黄金期幕開けの時代にあたり、庶民文化は隆盛を迎え、歌舞伎や遊郭と並び相撲が江戸の三大娯楽として人気を博していた。この時期、勧進相撲は新たな画題として絵師の目を引きつけ、力士の顔だけではなく体全体の特徴も描き出そうとする気運に乗じ、浮世絵の体躯表現は格段の進歩を遂げることとなる。しかしながら、同じ人物を主題としながらも、役者絵や美人画に比べ相撲絵はほとんど研究対象とされていない。相撲絵の制作を本格化させたのは北斎の師でもあった勝川春章(1726-1792)であり、似顔による役者絵で培った精彩な人物描写を力士にも発揮し、弟子らとともに相撲絵における勝川派の寡占を決定的なものとした。北斎もまた、春朗の号を廃し勝川派を離れるまでの時期に錦絵による相撲絵を描いている。永田生慈氏によると、春朗期の作としては間判のものが2点、細判のものが3点知られるが(注1)、管見においてうち一点の作品が未見であり、文献からもその詳細および所在は現在不明である(注2)。本論では残り4点の作品をもとに春朗期の相撲絵の特徴を明確化し、また勝川派を離れたのちに描かれた『北斎漫画』等にみられる相撲の描写もあわせて検討することで、北斎が人物表現をいかに展開させたのかについて相撲絵の側面からアプローチを試みる。1 先行研究と本論における課題葛飾北斎は宝暦10年(1760)に生まれ、16歳から版下彫をして過ごした後の安永7年(1778)、19歳で勝川春章のもとに弟子入りしたと考えられている(注3)。入門の翌8年には細判役者絵3点を描き、以後寛政6年(1794)にかけての約15年間が春朗を名乗った習作の時代と見られる(注4)。相撲絵の新境地を開いた勝川春章は、似顔による役者絵ですでに名声を確固たるものにしていたが、初期の相撲絵にはその役者絵からの影響が多分に見て取れる。〔図1〕は管見において錦絵による春章初の相撲絵と目される作品である。ここでは力士が土俵入りの際にのみ用いるはずの化粧廻しを着けたまま取組を行い、かつ当時は裸― 286 ―

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