① 相貌・体躯ともに像主の特徴を捉えた描き分けがみられるが、相貌には役者絵のよ足であるはずの行事が白足袋を履いている点、行事の「木村槌之助」という名が大坂でのみ使用されていた点、さらに描かれた力士らが活躍した天明初年(1781)当時の大坂では合羽刷りが行われ(注5)、錦絵の技術がまだなかった点などから、春章は実際の勧進相撲を見ることなく、伝聞による情報をもとに大坂相撲の様子を描いたと考えられる(注6)。〔図1〕では力士の表情やポーズが硬く、舞台上で見栄を切る役者のような相貌表現がとられているが、翌天明2年の江戸相撲の土俵入りを描いた作品では春章らしい似顔による力士描写へと改められ、同3~4年にかけての作品では相貌のみならず体躯にも力士ごとの特徴を捉えた描き分けがなされるようになっている〔図2〕。おそらく天明2年以降は春章も実際に江戸相撲へ足を運び作画をしたものと推されるが、以上の春章による相撲絵の展開で特筆すべきは、役者絵に用いられる似顔の人物表現をベースとしつつ、相撲絵によりふさわしい表現が意図的に試みられ、わずか数年の間に完成の域まで高められたという点である。春章以降、勝川派では相撲絵の様式が形成される過程において寛政期までに以下の特徴が明確にあらわれるようになった。うな美化はなく、反対に体躯はよりたくましく誇張して描く②力士は全身像で描かれ、役者絵では一般的な半身像が極めて少ない③取組図においては形勢の優劣がつけ難い拮抗する体勢描写が採用された④取組図や土俵入り図では双方の力士の顔がはっきりと分かる構図が多用されたこれらの特徴は、当時の浮世絵が現在のブロマイドのようなものであったため、より多く販売するために暗黙の商業上の制約が存在していたことが影響しているものと思われる。『浮世絵類考』には写楽について「歌舞妓役者の似顔をうつせしが、あまり真を画かんとてあらぬさまにかきなさせし故、長く世に行はれず一両年に而止ム」と記されているが(注7)、これは役者絵が相貌の特徴を捉えつつもあくまで「美男」として描かれることが求められていたことを暗示している。ゆえに相撲絵にみられる①~④の特徴は、購買者が期待する力士像の理想形が反映されたものだと言えよう。①・②からは力士に相貌の美しさよりも魁偉な肉体が放つ力強さが求められたため、③・④については技量の優劣を明確に示さないことで、描かれた力士双方の贔屓客を購買層に置くことが可能になったためと考えられる。本論では以上の基軸となる特徴をふまえ、春朗期以降北斎が相撲という画題を通し― 287 ―
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