2 制作時期の検討 現在確認される春朗期の相撲錦絵は以下の4点である。いずれも土俵での闘いを描いた取組図であり、作品の体裁および描写の特徴から〔図3〕・〔図4〕、また〔図5〕・〔図6〕は同時期に版行されたと考えられる。ここでは各々の作品の制作時期について番付に記された出場の有無と地位、改名記録をもとに考察を行う(注8)。〔図3〕《取組図 渦ヶ渕勘太夫・高嵜市十郎》(間判)〔図4〕《取組図 鬼面山谷五郎・出羽海金蔵》(間判)どのように身体表現を展開させていったのかについて考察を行いたい。渦ヶ渕勘太夫は、安永3年(1774)10月の江戸相撲で東前頭筆頭として土俵をつとめており、その時の四股名は「大石勘太夫」であった。同8年3月に「渦ヶ渕」へと改め、京都・大坂・江戸の三都勧進相撲で活躍したが、天明7年(1787)5月の江戸相撲を最後に出場の記録はない。高嵜市十郎は詳細な記録にかけるものの上方を中心に活躍した力士で、江戸相撲には安永2年10月に東二段目に列せられたのを最初に、同7年10月、同8年10月、同9年初冬と二段目力士として出場している。天明元年10月に西前頭4枚目としてはじめて幕内の土俵に上がると、同2年2月と10月も西前頭、同3年10月は西二段目筆頭に下がり、同4年11月には再び西前頭として土俵をつとめている。引退は寛政4年(1792)7月であるが、江戸相撲に出場したのは先述の天明4年11月の場所が最後である。以上の点から、〔図3〕は高嵜の江戸相撲最後の出場である天明4年までには制作されたと考えられる。鬼面山谷五郎は天明元年3月に東四段目8枚目として初土俵を踏み、江戸相撲では同3年10月と同4年11月に東二段目、同6年3月に東小結へと昇進したが、寛政2年5月の大坂相撲に参加したのを最後に同7月に現役のまま没している。出羽海金蔵は、安永6年4月に西四段目2枚目に付け出されて初土俵を迎え、大坂・京都の相撲興行にも参加したが、江戸では天明元年3月に東二段目、同年10月の江戸相撲では一度三段目に下るものの翌2年2月には二段目に復帰し、同6年3月に西前頭3枚目として入幕を迎え、寛政11年7月の大坂相撲を最後に引退している。両者が江戸相撲で初めて対戦したのは天明4年11月のことである。その後天明6― 288 ―
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