〔図5〕《取組図 高根山与一右エ門・千田川吉五郎》(細判)〔図6〕《和田ヶ原甚四郎・花頂山五郎吉》(細判)年、同8年、寛政元年と計4回顔を合わせており、〔図4〕の作画期の可能性は天明4年から寛政元年までとなるが、様式および体裁が酷似する〔図3〕とはほぼ同時期につくられたと考えられるため、遅くとも天明4年から数年のうちに描かれたとみるのが妥当であろう。高根山与一右エ門は天明7年に初土俵を踏み、はじめ「岩ヶ根國五郎」を名乗ったが寛政5年3月に「高根山与一右衛門」と改名し、同9年3月に四股名を「大岩」へと改めるまで江戸相撲には計7度参加している。寛政5年10月から同7年3月までは江戸相撲において東二段目の地位にあったが、同年11月からは東前頭へと出世している。寛政11年11月には「鬼面山」へと改名し、大関となった後文化10年(1813)に引退している。千田川吉五郎は大坂相撲で天明7年に初土俵を迎えたのちに江戸へ下り、「四角山粂七」として寛政元年3月に東三段目19枚目に付け出されている。その後四股名を「雪嵐」とし、一度江戸を離れると寛政4年7月に大坂で「千田川」へと改名した。同5年3月に江戸へ戻り、下の名を「吉五郎」とすると、同6年11月の場所で西前頭2枚目として入幕を果たす。文化2年10月に四股名を「玉垣額之助」へと改め、同9年4月の江戸相撲を最後に引退している。以上の記録を鑑み、〔図5〕は寛政5年から春朗が勝川の門を去る同6年にかけて制作されたと考えられる。和田ヶ原甚四郎は安永6年11月、「和田ヶ原友右衛門」の四股名で西上ノ口7枚目に付け出され、翌7年3月に下の名を「甚四郎」へと改めた。天明6年3月の江戸相撲で東二段目へと昇進すると、寛政3年11月に東前頭3枚目として入幕を果たし、同10年7月の大坂相撲を最後に引退したようである。花頂山五郎吉は、はじめ「温梅嶽五郎吉」を名乗り、寛政2年11月に西三段目8枚目で初土俵を迎え、同4年3月に東二段目筆頭へと出世して名を「鶴ヶ嶽」、翌5年3月に「常山」とし、同6年3月に西前頭5枚目として入幕すると、同年11月に備前岡山藩から庄内藩へと抱え先が転じたことをきっかけに「花頂山」へと四股名を改めた。寛政11年11月に下の名を「浅右衛門」と称し、享和2年(1802)に現役のまま没している。― 289 ―
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