が半分程度しか見えず、相貌全体を捉えることが重視された相撲絵の中では異質な構図であると指摘できる。続いて〔図5〕・〔図6〕の作品描写を検討したい。作画期と推される寛政5~6年は、すでに春章・春好が相撲絵の分野から退き、春英が制作の中心であった。〔図10〕・〔図11〕は春英による取組図である。これらの作品は屋外の庭園内で相撲を取る様子を描いた三枚続の中央部分である。雷電為右衛門によって記された『諸国相撲控帳』には、寛政6年(1794)に浜離宮で上覧相撲がとり行われたことが記されており、〔図10〕はこの場面を描いたものと推定される(注9)。同図は横を向く横綱小野川(右)が左側の常山の押しを受ける体勢で描かれ、天明期と比較すると描線は細く、硬直した体躯表現が柔らかなものへと変化していることがわかる。一方で小野川は真横を向きつつも顔全てがみえる構図で、像主の確認が容易なものとなっている。同じく寛政6年の作である〔図11〕では、右側の陣幕が真横を向いているために上半身がねじれた不自然な体勢となっている。他方春朗による〔図5〕・〔図6〕では、いずれも片方の力士の顔がほとんど隠れるものとなっており、画に記された四股名無しには描かれた力士の同定が難しい。体躯描写は同時代の春英と基本的に似通うものの、より複雑に組み合う体勢がとられ、特に〔図5〕の手前の千田川にみられる足の描写には、春朗期と明らかに異なる自然な表現が確認できる。4 『北斎漫画』以降の描写理由は諸説あるものの、北斎は春朗の号を廃して寛政6年に勝川派を去り、以後より自由な立場で多様な作品に取り組みはじめた。春朗期を最後に北斎が錦絵による相撲絵を描くことはなかったが、文化期(1804-1818)に入ると作画量が増し、同7年頃までは読本挿絵を、それ以後は絵手本を集中的に手がけるようになる。絵手本制作に積極的になった背景として永田氏は門人の増加を挙げており、『北斎漫画』もその弟子たちの画技習得の教材としての意味合いが強かったことを指摘している(注10)。『北斎漫画』にみられる相撲に取材する図としては、文化12年(1815)に刊行された三編に収められたものが有名である〔図12〕。取組時の様々な姿態を取り上げ、力士の相貌には意を向けず、より動勢を重視した構図であらわされている。先述の通り錦絵ではブロマイド的な性格上、力士同士の形勢の優劣がつき難い体勢での描写が求められたため、次第に構図の種類が限られ躍動感に欠ける様式の固定化を招いた。他方『北斎漫画』は絵手本ということもあり、北斎の鋭い観察眼は取組中一瞬で過ぎ去ってしまう勝負の決定的な場面を鮮やかに捉え、錦絵の相撲絵では描くことのできな― 291 ―
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