鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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いより自然で的確な体躯描写となっている。文政期(1818-1830)中頃に刊行された十一編には、場所入り時の力士を描いた「へや入リ」や「三役立合ヒ」といった勧進相撲に取材する場面〔図13〕や、市井の素人相撲〔図14〕が描かれているが、『北斎漫画』にはこれ以外にも骨が浮き出るほどにやせ細った人物による相撲の図や、『古事記』に登場する野見宿禰や当麻蹴速の相撲といった武者絵風の作品に至るまで、多種多様な体形の人物による相撲の場面が取り上げられている点が注目される。『北斎漫画』の制作に大きな影響を与えたとされる鍬形蕙斎の『略画式』(1795年)〔図15〕にも相撲を取る様子は描かれているが、比較すると北斎は人間の骨格の動きにより正確な姿態描写を重視していたことは明らかであり、多様な体形の人物がみせる体勢を通じ、人間の動きの本質を捉えようとする意図が感じられる。勝川派から離れたことで、実在の力士を似顔で捉える“一般的な”相撲絵を手がける機会は失ったものの、制作の際に課せられる様々な制約から解放された立場で表現を行うことが可能になったためであろう。一方で、北斎は自身の派を形成するに至っても、人物描写の習得に際し勝川派の相撲絵を参考にしていたようである。〔図16〕は大英博物館に所蔵される墨描きの習作である。明らかに天明3年の春章による〔図2〕の模写であるが、本図後方に描き込まれた酒に酔う人物たちの描写の特徴から、制作時期は『北斎漫画』が描かれた文化年間以降であると思われる。本図はかつて楢崎宗重氏によって葛飾北斎筆とされていたが(注11)、現在の大英博物館では所蔵時に同梱されていた体裁を同じくする他作品の作者と同じ「北紫」作としている。北紫に関する記述は文献にもほとんどみられないが、北斎の門人として文化年間に活動した絵師であることが『浮世絵師伝』に記されている(注12)。〔図16〕の作者については今後さらなる考証が待たれるが、本図は北斎が勝川派を離れた後も、同派内の相撲絵で展開された体躯表現が北斎門下の画技教育に生かされていたことを示す貴重な資料であるといえよう。おわりに以上春朗期からの作を概観しつつ、北斎がいかに相撲という画題を描いたのかを考察した。その結果、春朗期からすでに勝川派の中核であった絵師らの単なる模倣にとどまらず、商業上の制約よりも力士の現実的な動きを重視した表現が試みられていたことが具体例をもって確認された。また勝川派を離れ、多数の弟子を抱えるようになった文化期に、『北斎漫画』等で錦絵とは一線を画す取組中の姿態を積極的に描いたほか、天明期の春章の相撲絵を再び模した習作が存在することは、北斎が相撲を人物― 292 ―

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