鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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本図冊は画家の旅行経験を描く紀游山水として注目されてきた(注5)。明代後半の旅游文化の興隆は、文人たちの旅行の記録である游記が嘉靖年間(1522~1566)から増え始め、万暦(1573~1615)以降大量に出現することなどから裏付けられる(注6)。紀游山水図の制作も増加するが、特に画冊形式は、王履「華山図冊」(1383年、北京故宮博物院、上海博物館)の再評価を受けて、16世紀後半に流行したと考えられ、陸治・銭穀らの作例が残っている(注7)。多くは旅行者本人や友人の游記や詩文を伴い、各図は旅程に従って並べることができる。「越中名勝図冊」も、元は何らかの文章と共に、旅程順に装幀されていた可能性がある。表現については、道・橋・瀑布・航跡など、「長もの」の基軸を縦方向に配置する構図の定式があるという米澤嘉圃氏、鳥瞰構図と遠近表現における西洋銅版画の具体的な影響をいうジェームズ・ケーヒル氏、両氏の指摘が重要である(注8)。以上をふまえ本稿ではまず、明代後期の旅游文化の中に表れる越の名勝について概述する。次に同時代山水図冊との構図法の比較を行い、遠近表現に着目して張宏作品の中での位置付けを探る。また、人物描写についても簡単に考察する。これらを通じて、旅游文化の興隆を受けた名勝山水図の展開の中での本図冊の意義を明らかにしたい。2、越の名勝について─明代後期旅游文化との関わりを中心に─越は現在の浙江省一帯を指す地名とされる。経済と文化の中心・杭州を有する浙江は、人気の旅行先であり、その名勝が游記に登場する回数も多い(注9)。例えば、浙江・台州出身の王士性(1547~1598)は、北方の会稽を都とする春秋戦国時代の於越と、南方の温州一帯にあった東甌から成る「一越」について、西湖(杭州府)、天台山など台州府の諸山、北雁蕩山(温州府)の游記を残す。また「越游注」では、紹興府の新昌南明山・会稽山、寧波府の雪竇山・四明山・東銭湖・普陀山、厳州府の釣台、金華府の金華山、温州府の玉甑峰・江心寺(永嘉江)・南雁蕩山、処州府の石門・仙都山・麗水南明山を紹介する(注10)。蘇州から杭州へは舟で4日ほどの距離で(注11)、杭州からはさらに浙江全域に及ぶ交通網が構築されていた。蘇州文人も旅の参考にしたという、黄汴『一統路程図記』(1570年)は、蘇州から運河を南に進み、嘉興や杭州を経て、富春江を南西へ上り、厳州や衢州へ向かう路程(巻1条1)、杭州から運河を東に、紹興や寧波、南下して台州や温州へ向かう路程(巻3条28)、杭州から陸路を西に、安徽・徽州へ向かう路程(巻8条2)などを紹介し、普陀山(巻7条24)・銭塘江(杭州府、巻7条37)・天― 310 ―

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