研 究 者:神戸大学大学院 人文学研究科 研究員 坂 本 篤 史サルヴィアーティ家は、12世紀後半にフィレンツェで活動していたゴッティフレード(Gottifredo)を祖先に持つフィレンツェの有力家族であった(注1)。14世紀末にはメディチ家と関係を結びながら商業活動を営み、15世紀にはフィレンツェをはじめロンドンやブルージュにまで銀行を開業する一方で、政治的には、執政官を3度務めた同家のカンビオが1335年に正義の騎士に就任するなど、サルヴィアーティ家は経済的にも社会的にも大きな躍進を遂げた。その後も同家は、メディチ家などフィレンツェの有力市民と姻戚関係を結ぶことで着実に権力を拡大していった。さて、ジュリオ・デ・メディチがクレメンス7世として教皇に即位した1523年に、ヤコポ・サルヴィアーティ(1461−1533)は新教皇の秘書兼顧問としてローマへ移り、フィレンツェには彼の従兄アラマンノ(1549−1510)が残った。こうして一族は2つに分枝した(注2)。その後前者の家系から出たロレンツォ(1568−1609)は1603年に教皇クレメンス8世より、教皇領の一部であったジュリアーノの地を下賜され伯爵の称号を、さらに彼の息子ヤコポ(1607−1672)は、1627年にウルバヌス8世から公爵位を与えられた(注3)。分枝したとはいえ、ローマの家系もフィレンツェのコルソ通りに邸宅を有してはいたが(ポルティナーリ=サルヴィアーティ邸、現・トスカーナ銀行)、公爵ヤコポが1634年にフィレンツェを引き払ってローマに定住すると、美術品など多くの財産がフィレンツェからローマへと徐々に移動していった。それに伴い多くの財産目録が作成されたが、そこには作者、主題はもちろん、フォーマット、寸法ならびに当該作品にまつわる関連事項が記載されているため、来歴研究には必須の史料となっている(注4)。さて、フィリップ・コスタマーニャによれば、1704年の財産目録には合計695点のタブローが記載され、それらはローマのテベレ川沿いの邸宅(パラッツォ・アッラ・ルンガーラ)と別荘(カジノ・デ・サンタ・マリア・マッジョーレ)に所蔵されていた。その白眉ともいうべき198点の傑作絵画は、前者の主要階(piano nobile)にあった、5つの居室で構成される通称「絵画の部屋(Appartamento dei Quadri)」を、さらに121点の小品は同邸の通称「水晶の小部屋(Gabinetto de Cristalli)」を飾っていたという。さて、「絵画の部屋」にあった198点のうち、最多の126点がフィレンツェ派の作品であった(注5)。この中にはラファエッロやアンドレア・デル・サルトなどルネサンス期の作品もいくつか含まれるが、圧倒的に多いのが、16世紀後半から17世紀― 320 ―㉙ サルヴィアーティ・コレクション研究
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