― 321 ―に活躍した画家たちの作品である。コスタマーニャは、同家の美術コレクションの特性及び目録に記載された諸作品の同定について詳述しているし、同家とアレッサンドロ・アッローリを中心とする16世紀後半の画家たち並びに17世紀の画家フランチェスコ・フリーニとの関係についてはすでに先行研究があるため(注6)、本稿では先行研究で指摘されてこなかったヤコポ・サルヴィアーティの美術作品の注文状況について、古文書調査の成果を報告したい。ピサ、サルヴィアーティ文書館が所蔵する公爵ヤコポの帳簿記録を見てみると、1640−50年代により頻繁に美術作品を収集している。(注7)。ジョヴァンニ・ビリヴェルトの《ロトと3人の娘たち》のように、美術コレクターから購入したもの(注8)や代理人に作品を買い付けさせる場合もあったが(注9)、17世紀フィレンツェ派の画家たちの作品については、画家から直接購入した場合が圧倒的に多い。この場合、代金支払いの時期と作品完成の時期がほぼ一致しているため、作品の制作年を同定するうえで重要な史料となる。この時期には、カルロ・ドルチの《聖アントニウス》(1649年)(注10)、「大公子[のちのトスカーナ大公コジモ3世]」(1650年)(注11)、「キリスト」(1649年)と2枚の「聖母マリア」(1650年)(注12)、ジョヴァンニ・マリア・モランディの「聖セバスティアヌスの殉教」(注13)と、オラツィオ・フィダーニの手になるその対作品「聖ラウレンティウスの殉教」(1649年)(注14)を制作している。この時期にはまた複製画もいくつか制作された。前述のモランディは、公爵ヤコポに仕えた人物として先行研究で言及されてきた画家であるが、彼は1645年から翌年にかけて「ティツィアーノの聖母」、「ガエターノ〔シピオーネ・プルツォーネ〕のエッケ・ホモ」や「フィレンツェ大司教聖アントニーノ」を模写している(注15)。また、同時代史料が不足していることから研究の進んでいないドメニコ・プリアーニも同年「エッケ・ホモのコピー」を制作している(注16)。彼が制作したのは、先述のプルツォーネの作品あるいはコレッジョの作品(ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵)であったと思われる。そのほかにも、やはり史料不足のため研究の進展が難しいジョヴァン・バッティスタ・ルピチーニやフェリーチェ・フィケレッリが別作品の模写を制作している(注17)。これらの複製画は、公爵ヤコポがローマとフィレンツェの双方の自邸に飾るため、また第三者に寄贈するために制作された(例えば、ティツィアーノの聖母の模写は、公爵ヤコポの妻の家系であるチーボ家に寄贈するためのものであった)(注18)。さて、こうして徐々に形成されていった公爵ヤコポのコレクションは、彼の孫にあたるアントン・マリア(1664−1704)の時代にすべてローマへと移されたが、彼とそ
元のページ ../index.html#331