鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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― 329 ―って、当ロックウード製陶所の創立者たるストァと申す婦人が此のモース氏より種々の話を聴き就中出雲焼に多大の趣味を持って、遂に之が模造を企つるに至ったのであります。創業の自分は学校を借りて、其處で職工四五人を使い唯慰み半分に日本の出雲焼の茶壺のようなものを手本として僅かばかりのものを製造して居りました。それが段々進歩発達してシーグリーンとか、マットグレーズとか現今見る様な美術的製品を作り得る様になったのであります(注3)。この白山谷の講演では、白山谷自身は18年前(明治27)にルックウッドに行ったと語っているが、実際に彼がルックウッドに雇用されたのは明治20年(1887)であった。またその前年にシンシナティを訪れていることが知られているため、実際はこの講演の25年前(あるいは26年前)にルックウッドに行っていることになる。つまり講演で語られているのは、明治20年前後のルックウッドの状況と考えられる。この講演の18年前頃は、シカゴ万博(1893)でルックウッドがグランプリを受賞し、白山谷が日本を訪れていた時期である。この時にもやはり講演をしているが、その内容には出雲焼にふれた部分はみられない(注4)。日本でルックウッドの製品が知られるようになるのは、この明治26年(1893)頃からであったと考えられている(注5)。しかし、後述するように出雲では澤喜三郎が中心となってこれより前からこの講演で紹介されているルックウッドの新しい技術であった釉下彩を研究し、明治25年(1892)にはその開発に成功していた(注6)。それは日本の他の陶磁器に比べ比較的早い時期だった。また大正元年の白山谷の講演でふれられているモースとは、米国の動物学者で大森貝塚の発見でも有名なエドワード・シルベスター・モース(Edward Sylvester Morse)のことである。日本の陶磁器の収集家でもあった彼は、実際に明治19年(1886)にシンシナティで日本について講演し、ルックウッド・ポタリーの創立者マライア・ロングワース・ニコルズ(Maria Longworth Nichols Storer、後に再婚しストーラーとなる)にそのコレクションの一部を売却した(注7)。白山谷によると、モースから話を聴くうちに、マライアが出雲焼に興味を持ちその模造を企てたとされている。「シーグリーン(Sea Green)」と「マットグレーズ(Mat Glazes)」はどちらもルックウッドの釉薬の種類である。シーグリーンは濃い緑色の釉薬で1894年頃、マットグレーズは表面がマットな質感となる釉薬シリーズで1900年頃に発表されている(注8)。そのため、明治26年のシカゴ万博の際にはまだ開発されていない。つまり白山

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