― 330 ―谷によると出雲焼はこうした釉薬を使った「美術的製品」ができる前のルックウッドの初期の段階の「手本」だったのだ。2.清風與平の談話一方、白山谷の講演より13年ほど前、明治33年(1900)のパリ万博の前年、『大日本窯業協会雑誌』に京都の陶芸家三代清風與平による日本の陶磁器の海外への輸出についての談話が掲載された。そのなかでやはり出雲焼とルックウッドの関係について、述べられた部分がある。▲米国の模造品前述の如く欧州各国の日本品模造陶器は殆んど敵とするに足らず余は其最近の作にして且つ比較的精巧なりとの評ある物を外国より取り寄せしが、概ね此の如き(氏はコペンハーゲン産の徳利、及びデッドハム産の辰砂擬の小花瓶を示す)類にしてお話にならずと雖も唯北米合衆国シンシナチ州ロックウード製陶会社の日本模造品は実に巧妙を極めたるものあり同社の社長は一夫人にして非常の日本好なりしが先年日本に遊びし時余の店舗に来たりて日本磁器の精緻なるに驚嘆し帰国の後之を試みしも遂に磁器を製すること能わず再び日本に来りて全国の陶磁器生産地を巡遊し遂に出雲焼の陶器を製造せんことを思い立ち二名の本邦職工を雇入れて帰国し前記ロックウード製陶会社を起せしなり爾来毎三年に日本に来たり自から子細に我国の製陶業を視察し其度毎に余が店にも来訪し種々質問研究することなるが其の熱心驚く可きと同時に其製品も日々に進歩をなし近頃送り来したる出雲焼の壷の如きは黒人と雖も容易に外国品たるを鑑別すべからざるのみならず其製作は全く出雲焼の上にあり此の如き事情なるを以て少なくとも陶器の一点に於ては米国に向って我製品の競争を試むるを容易の業に非ずと信ず(注9)清風與平は、明治26年(1893)に陶芸界で最初の帝室技芸員になった人物で、海外でも高く評価されている。清風は、この記事の前文で当時海外で日本風の陶磁器が盛んに製造され、これらが日本からの輸出品と競合していることを述べている。ただし、ここではヨーロッパで生産されているものに対しては、その品質の点から日本製品の優位性を認め、一方でアメリカのルックウッドの製品に対しては、競争するのは容易ではないとしている。この中で、やはり出雲焼はその創立時にルックウッドが参考にした日本の陶器であ
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