― 331 ―ったことが記されている。しかし白山谷が「モース氏より種々の話を聴き就中出雲焼に多大の趣味を持って、遂に之が模造を企つるに至った」としているのに対して、清風はマライア自らが「日本に来りて全国の陶磁器生産地を巡遊し遂に出雲焼の陶器を製造せんことを思い立」ったとしている。しかしマライアが日本を訪れたことを示す当時の記録は今のところみつかっていない。清風によると、マライアは当初日本の磁器を作ろうとしたが、これに失敗したため出雲焼の陶器を参考にしたとされている。当時の出雲焼の特徴のひとつは、後述するように低火度で焼かれた柔らかい陶器であることであった。ルックウッドを模した釉下彩画が導入される前は、この柔らかい陶器の器体に黄色い艶やかな釉薬、そしてその上に色絵が施され海外にも輸出されていたのだ〔図4−1、2〕。また清風は、マライアが日本の職工2人を雇い入れて帰国し、「ロックウード製陶会社」を起こしたと語っている。マライアがルックウッド・ポタリーを始めたのは明治13年(1880)であるが、この時点で日本人の職工を雇っていたという記録はない。また、その10年後の明治23年(1890)に、事業をウィリアム・テーラー(William Watts Taylor)に譲り、ルックウッド・ポタリーは新しい体制となったので、清風はこのことについて「ロックウード製陶会社を起せしなり」としたと考えることができる。そうした場合、ここでマライアが雇い入れたとしている2人の日本の職工のひとりは白山谷、もう一人は拝郷益夫と思われる。拝郷も白山谷と同時期にルックウッドに雇われている(注10)。つまり、清風の談話でも白山谷のルックウッドへの入所前に出雲焼が参考にされていたことが述べられているのだ。しかし清風は明治32年(1899)当時には、すでにルックウッドの陶器のほうが、出雲焼よりも優れている事も指摘している。3.黄釉陶器とルックウッド・ポタリーの日本趣味当時の日本の窯業関係者にとってルックウッドと出雲焼は、黄色の釉薬を使った陶器であることが、その共通点だと考えられていた。例えば、清風の談話から5年後の明治37年(1904)の京都陶磁器試験場の報告によれば、「黄釉硬質陶器」を製造するのは世界でルックウッドのみだが、品質が及ばないにせよ出雲でも古来類似品を産出しているとされている(注11)。ルックウッドに及ばないとされているのは、出雲焼が「軟質陶器」であったためであろう。また当時の窯業界の中心的な人物であった盬田眞は明治32年(1899)に澤喜三郎に招かれ、島根県の出雲焼の産地・布志名で下記のように講演している。
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