― 332 ―当布志名窯の妙用何れにあるかは当業者たるもの之を知らざるべからず日本にて当山と淡路焼とは殆ど能く似て世に珍重せられつつあり而して出雲焼は黄色にして珉平焼より薄く斑色無く清麗なること藩主不昧公以来の名産たり京都粟田窯は薩摩窯と能く似て細微なる篏入あるところが其長所にして右三種は日本の三軟陶器とも謂ふべきなり内に就て粟田窯は盛に海外に輸出し頗る高価品出せしも近時は粗製安価品を出して信用を失墜せんとす亜米利加勧工場に至りて陶器を見れば中に日本の粟田焼あり淡路焼あり又黄彩陶器あり各種の磁器あり精粗混雑目を驚かす許りなるも価の低く質軟なるものは日本品に限ると評せられつつあり当地黄薬の如きは仏米独の各邦皆之を製造するも日本特有のものに及ばず殊に此の釉薬は技術上却て易しとするものなり故に此の上一層研究を重ね光沢麗わしく質硬く形状意匠に注意し品格あるものを製造せんこと尤緊要也(注12)ここでは、日本の軟質の陶器の代表として、京都の粟田窯と淡路焼とともに出雲焼の名が挙げられている。そして外国の製品と比べた際の、この「柔らかさ」が出雲焼の弱点だと考えられていたことがわかる。また盬田によれば、出雲焼のもうひとつの特徴である「黄薬」はフランス、アメリカ、ドイツどこでも製造しているが、日本特有のもの(出雲焼の黄色い釉薬)の方が、優れていると考えられている。また黄釉は当時としてはすでに技術的にはつくり易いものとなっていたようだ。やはり海外製品と日本のものを比較し、盬田も危機感を持っていたことがうかがえる。一方ルックウッド・ポタリーでは、1880年代の前半に開発された「スタンダード」〔図1〕と呼ばれる黄色の艶やかな釉薬は、1890年代の「シーグリーン」や1900年代の「マットグレイズ」など新しい釉薬が開発される以前、この製陶所を代表するものであった。またルックウッドの創設直後の1880年代初めの日本趣味は、フランスのジャポニスム陶器からの影響が大きかったが〔図2〕、「スタンダード」等ルックウッド独自の釉薬が開発された明治18年(1885)前後には、その製品にも大きな変化があった。黄色い釉薬である「スタンダード」に加え、黄色い地に日本趣味のモチーフを描いた作品〔図3〕も見られ、白山谷の講演で語られていたようにこの時期のルックウッドポタリーの製品には、出雲焼〔図4−1、2〕を連想させるものがある。白山谷が「出雲焼の茶壺のようなものを手本として僅かばかりのものを製造して居りました」と語っていたのは、〔図3〕のような作品だったのではないだろうか。このようにルックウッドが日本の陶器を模倣することに対しては、アメリカでも懸念が示されていたことが知られている(注13)。またルックウッド・ポタリーについ
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