鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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4.ルックウッド・ポタリーの釉下彩と出雲焼― 333 ―ての最近の研究では、明治18年(1885)以降、その「日本的」要素は、徐々に消化・後退していったとされている(注14)。ただ今回の調査では、アメリカの文献には、ルックウッドの日本の陶磁器からの影響について「出雲焼から」と限定した表現は見つからなかった。明治29年(1896)、出雲焼の製造者である澤喜三郎は、出雲焼がルックウッド風の釉下彩(透明釉の下に絵付を施す技法)を用いた陶器発明後の出雲焼の好況を下記のように報告している。ロクウード風之陶器(釉下彩画入)発明以来益々好評を博し内国需用品及び輸出品共漸次産額を増来る職工稀少にして殆ど注文の六七分位より製出すること能わず為に他より職工を招聘するも優等職工は他邦に出職する者なく故に地方徒弟を募集伝習し事業拡張に熱心し漸々好運に向う方なり(注15)また当時の出雲焼を現地調査した応用科学者大築千里は、出雲焼が米国製陶器(ルックウッド・ポタリーの陶器のことであろう)を手本に釉下彩を開発した経緯について下記の様に記している。然るに会々米国製陶器の布志名に来るあり該地の陶工其品質画様等を見るに及んで羨募の念禁ずる能わず川上岩倉諸氏の協力に依り熱心之に模擬せん事を勉め遂にコバルトを用いて彩画を施すに至れり然れども海外の需用日を追て増加し来り彩画も単にコバルトのみを以て已むべきにあらずとて熱心其攻究に従事し遂に種々の色画を施し続て今日の如き釉底の彩画を製作するに至れり即わち近年に至る迄は其製品専ら釉上の彩画のみにして敢て釉底の彩画を行う者なかりし、其之を施すに至りしは実に近年にありとす(注16)このように当時の出雲は海外にも盛んに陶器製品を輸出していた。また出雲焼が取り入れた釉下彩の技術は、当時の日本ではあまり取り入れられていなかった新しい技法である。澤によるとこの釉下彩の技法は明治25年(1892)に実現したものであった(注17)。白山谷を雇用した明治20年(1887)のテイラーの手紙により、ルックウッドもこの

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