― 334 ―釉下彩の技法は日本とは違ったルックウッドの特徴と捉えていたことが明らかにされている(注18)。そして、ルックウッドは日本の陶磁器の単なる模倣を目指していたのではなかった。つまり、日本の陶磁器によくみられる上絵ではなく、ルックウッドのもつ新しい釉下彩の技術のもとで、日本趣味の絵付を白山谷によってさらに発展させルックウッド独自の日本趣味の陶器をつくることを目指していたのだ。澤が記した当時の出雲焼の発達の歴史(注19)を見ると、こうして発展したルックウッド・ポタリーの釉下彩の製品は、明治23年(1890)頃、出雲焼の関係者が目にすることになったと考えられる。それは、「羨募の念禁ずる能わず」と感じられるほど優れたものだった。ルックウッドは明治22年(1889)のパリ万博で金賞を受賞し、これをきっかけに、はじめて優れた美術陶器の製陶所として国際的に知られるようになったようである。出雲焼の関係者がその製品を目にしたのもこの頃だったのだ。この時期のルックウッド・ポタリー作品は〔図5〕であり、その影響を受け澤喜三郎らは〔図6〕のような出雲焼を製作したと考えられる。ただ出雲焼の当事者であった澤喜三郎は、『大日本窯業協会雑誌』の出雲地方の通信員として、出雲焼の様子を何度も雑誌に報告しているが、ルックウッド・ポタリーが出雲焼を模倣したことについて触れたものはなかった。大築の報告にも、出雲焼からルックウッドへの影響についての言及はみられない。おわりにルックウッド・ポタリーで働いていた白山谷にとっては、入所後、そこでみた出雲焼風の製品は、自分が雇用されたときにすでに作られていたもので、その後ルックウッドが大きな成功を収める前のものと捉えられていた。また日本の窯業関係者が述べたものを読むと、ルックウッド・ポタリーを日本製品のライバルとして意識しており、比較対象として似たものを作っていた出雲焼にふれていることがわかる。こうした日本の文献にも白山谷のルックウッド入所時期(明治20年頃)と思われるルックウッド・ポタリーにおける出雲焼からの影響についての言及が見つかった。一方、出雲焼の当事者澤喜三郎や出雲焼を詳しく調査した大築千里らの報告、またアメリカの文献には「出雲焼を模倣した」というような限定した表現は見つからなかった。しかし白山谷が言うように特に明治18年(1885)前後のルックウッド・ポタリー作品には出雲焼と似た黄色い釉薬「スタンダード」や黄色地に日本趣味の絵付をした作品がみられる。またルックウッドの指導者たちも日本趣味を意識的に取り入れている。
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