注⑴田中欣二「ハーンを巡る架橋者達─白山谷喜太郎とガスタヴ・エクスタイン博士」『へるん』第41号、八雲会、2004年、また高木典利「近代当時を彩った人々─アメリカの美術陶器、ルックウッド─白山谷喜太郎」『近代陶磁』第6号、近代陶磁研究会、2005年、そして国際シンポジウム「パシフィック・クロッシング─白山谷喜太郎と日米文化交流」2013年11月23日・24日、主催:公立大学法人金沢美術工芸大学/金沢21世紀美術館など。― 335 ―⑵河野克彦「明治期の出雲焼─出雲・布志名焼の輸出陶器の変化について─」『研究紀要』第6号、島根県立石見美術館、2012年、また「特別展 島根のやきもの─近代の出雲・石見の陶芸─」2013年12月26日〜2014年2月16日、主催:島根県立石見美術館、そして阿部賢治「布志名焼窯跡出土遺物の検討─刻印と米國ログウード風の陶器について─」『島根考古学会誌』第30集、島根考古学会、2013年など。⑶白山谷喜太郎「日本趣味の陶器製造を以て著名なる米国ロックウード製陶所の現況」『第六回商品改良会報告』農商務省商務局、大正2年(1913)。⑷○第八次講談会を開く来会者二十二名外に傍聴人七名、評議員には植田、河原の二君出席す第一席は客員白山谷喜太郎氏にして「米国陶器製造に就て」と題し先ず同氏が経歴の一班を述べ次て米国オハイオ州シンシナテ市ルックウード製陶所の景況を説き方今所用の最新機具三四種を幻灯にて示されたり抑も同氏は九谷の画工して明治十七年米国に渡航し二年の間は諸処を遍歴し十九年始めて上文シンシナテ市の富有なる寡婦ストーラァ夫人の陶器試焼の助手と為り爾来黽勉従事して遂に先年株金を募集して一の合資会社と為しルックウード製陶所と称し一大規模を置けり同氏の言に拠れは釉は三色あり素地は画料を蒸気管にて噴瀉して着色し此上に絵画を施し更に此釉を襲う而して焼窯は方今鉱油を用ふ火度均等にして節制自在ないと云う同所製品の標本を点検するに一種の風致を具え彩釉麗沢にして而かも野鄙ならず欧米諸国共に類似の品なし是より米国の風景を幻灯数十番、畢て質問あり此間に平野耕輔君は白山谷氏に対する礼辞と本会将来同氏に希望する所とを述べられ同氏の答辞あり「本会記事」『大日本窯業協会雑誌』第2巻第17号、大日本窯業協会、明治27年(1894)。⑸注⑴の佐藤一信「日本窯業にとってのルックウッド」発表。⑹注⑵。今後、白山谷が雇われるより前のこの明治18年(1885)前後のルックウッド・ポタリーの製品に、特に出雲焼からの影響はあったのかさらなる調査が必要であると考える。そして白山谷の入所後に、さらに発展したルックウッドの日本趣味の製品は、出雲焼に強いインパクトを与えることになった。その後、出雲焼のルックウッドの釉下彩の技法を取り入れた黄釉の陶器は盛んに生産され、昭和初期に民藝運動の興るまで出雲焼の最も特徴的なものであった〔図7〕。またこうした黄釉の色絵の作品以外にも、出雲焼はルックウッドの「スタンダード」以降の新しい製品の影響を受けたと思われる陶器を新たに作り、以前と比べその規模は縮小したと思われるが、海外に輸出していたのであった(注20)。
元のページ ../index.html#345