鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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(注3)。一方では、上記のような摸写企画において、摸写そのものを具体的に行うのは、専門的な技術が身についている絵師、とりわけ優れた技を持つ個人であり、それを擁するかなりの規模を誇る集団である。そこで、技術の獲得、確立、そして伝承のためには、日常的な修行の内容として昔から伝来した、あるいは中国から舶来された絵の摸写が大事に用いられていた(注4)。狩野派においては、摸写することは絵を学ぶための至上の手段として用いられていた(注5)。対して、伊藤若冲の場合、「三十年一日の如きなり」とこれに取り掛かり、摸写の絵は千幅も超えたとされている(注6)。そのような摸写の結果は、絵師集団の内部においては、いわゆる粉本収集という活動に直結し、それを通して集まった絵は、そのまま流派の権威を裏付けるものとなり、絵師の家風や画作の内容に貢献する重要な構成要素と化したものである。以上のような絵巻摸写にかかわる当初の思考は、かなりのところにおいて今日でもそのまま受け継がれている。現代の絵巻享受において、原典が失われた作品については、摸写をあたかもオリジナルもののように利用し、対して原典が存在する場合、摸写は特別に必要とされる用途がないものとして片付けられ、ほとんど振り向きもされない。この限りにおいては、絵巻の保存という目標を掲げて摸写を手がけた企画者たちの苦労は過不足なく報われたとすべきだろう。一方では、個々の摸写作をめぐる企画者、絵師たちの思いや各自の事情を明らかにすることは、個別の摸写作を知るためにはたしかに基本的なものであり、明らかにすべき課題なのである。ただし、ここで見逃してはならないのは、それらの思いや事情は、あくまでも製作者側の立場に過ぎず、絵巻摸写の研究の全体にかかわる枠にはなれないことである。分かりやすく言えば、文学研究における作者への視線とよく似ている。一点の名作について、その作者の気持ちが如何にせよ、読者に対して与える影響や作品の価値を知る上でけっしてそのすべてではない。その意味において、摸写研究の視野をさらに広げなければならない。三、摸写方法を見つめるつぎに、視点を変えて、絵巻摸写の方法に注目してみよう。摸写の方法というのは、同じく絵師の選択であり、絵師主体のものである。ただしその方法が訴えようとする対象は、完成された作品を享受する人々であるがために、作者と読者との交流を前提とする要素が新たに加わってくる。これまで絵や絵巻の摸写を論じるものは、たいてい摸写の方法に二つあるものだと― 25 ―

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