鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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注⑴赤沢英二「十五世紀における金屏風について」『國華』849号、1962年。たように、葬式に使われたという例があることから、単純に装飾画として認識されていたのではないことが明らかになったことで牡丹屏の新しい側面を一部でありながら考察することができたと思う。以上のように、朝鮮後期の宮廷において、牡丹図屏風が儀礼の調度として重要な役割になっていたことが確認され、しかも王室の調度を継承する韓国国立古宮博物館に10隻以上が現存していることが明らかになったことで、実際に宮廷で用いられたことを示す具体的な記録はなく、あくまで状況証拠からの判断ではあるが、今回の問題であった狩野梅笑筆「牡丹流水図」の右隻だけが伝世した理由が少しずつ分かってくるように思う。外国の屏風を朝鮮宮廷の儀礼に用いることが可能だったのか、それについても検討が必要だが、本稿で取り上げたように国葬に使われていたというよりも使臣の接待時やヤンバン、官僚など王や王妃以外の人たちが主になる行事で使われていた可能性が高いことを指摘した。とりわけ宮廷と「牡丹屏」の根強い関係から、儀礼に相応しい調度として確保する必要があり、それゆえに残された可能性を読み取ることはできないだろうか。また朝鮮における牡丹図の受容は、日光東照宮陽明門西側壁に彫られている境内で最大とされている牡丹唐草の図像の解釈にも応用できるのではないかと思う。陽明門の彫刻についてはその題材や配置にも何らかの意図があったものと考えられており、最近でも彫刻の数や題材についての悉皆的かつ詳細な調査が行われている。その結果、どこに、どのような彫刻があるかという現状は明らかになったが、問題はなぜ、そのような彫刻をそのような場所に配置したのかということであって、これについての十分な研究がなされていなかった。本研究で明らかになった朝鮮時代の牡丹図の受容内容を踏まえ、今後の課題にしていきたいと思う。― 345 ―武田恒夫ほか『日本屏風絵集成』全17巻、講談社、1982年。安輝濬「日本絵画調査の成果」『日本絵画調査報告書(昌德宮所蔵)』文化財管理局、1987年、10−13頁、57−59頁。武田恒夫「贈朝鮮国王屏風について」『日本美術工芸』639号、日本美術工芸社、1991年、7−20頁。武田恒夫「朝鮮国王への屏風絵」『狩野派絵画史』吉川弘文館、1995年、332−347頁。洪善杓「朝鮮後期韓・日間画籍の交流」『美術史学研究』205号、1995年、17頁。榊原悟『美の架け橋 異国に遣わされた屏風たち』ぺりかん社、2002年、162−176頁。⑵朴美姫「近世における日韓絵画交流の研究─朝鮮国王に贈呈された「苅田雁秋草図」を中心

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