鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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する。現状摸写と復元摸写である(注7)。簡略に説明すれば、前者の現状摸写、あるいは剥落写しとは、目の前にある絵の、その時点の様子をありのままに写し起こすものである。百年単位で伝わった古来の作品の移り変わりを、たとえそのような時の烙印が明らかに分かるものについても、あえて分析や判断を加えず、ありったけの技術技法を活かして、いまある様子を記録することを最大の目的とするものである。一方では、これに対して、現状を記録する努力が見られないものをすべて復元摸写とする。違う色や構図などに原典と摸写との相違があるとすれば、それをとりもなおさず絵師が認識し判断した絵のあるべき、あるいはかつてあったはずの姿だと捉えるものである。以上の論法に添って「後三年」の摸写群を検討してみよう。現存する摸写のうち、現状摸写の手法を丁寧に用いた「東博四巻本」(注8)がある。その完成度はきわめて高く、現状摸写の可能性やその達成の水準を指し示すために用いるべきぐらいのものである。色の剥落の様子は詳細に描かれ、原典をこの摸写と読み比べれば、摸写が行われたあとに原典のほうに見られた継続的な剥落の進行の様子が細かに分かるものである。一方では絵が施されなかった空白において認められる汚れなどはすべて摸写の対象から除外され、その結果摸写という事実が却って生々しく伝わってくる。これに対して、「後三年」摸写群の他の作は、明らかに現状摸写の方法を取らず、しかもその多くは、復元摸写と捉えるにはあまりにも隔たりが大きい。その豊かな内容、数えきれないバリエーションの一端を知るために、たとえば摸写における色の使い方を取り上げてみよう。「後三年」の摸写に見られるさまざまな色の使い方は、摸写と原典との距離を極端に示している。それらの様相は互いに統一性を見出すことが難しく、原典からの即急な摸写をはじめ、摸写本を用いての再度の摸写、複数の摸写による交互の影響などいろいろな理由が作用していたと考えられる。その結果、最初には丁寧に色を付けていても、先に進むに従い色を減らしたり、配色を止めたりした「狩野本」(注9)もあれば、逆に原典とは関係なくかなり統一性をもつ独自の色を選んだ「資料館一巻本」(注10)、「大英博本」(注11)、「富士美術館本」(注12)もある。中でも、「成城本」(注13)は金箔を散りばめた料紙に金銀泥彩色をふんだんに用いて、派手やかな祝賀要素まで演出した煌やかな作となった。対して「京大本」(注14)は色を一切退けて、流暢な墨線をもって魅力的で生き生きとして絵を描き上げ、「国会本」(注15)「静嘉堂本」(注16)「早稲田小嶋本」(注17)「逸翁美四巻本」(注18)などは、絵師を読者に想定したからだろうか、配色を色ではなく、あるいは色に加えて文字をもって細かく注記する形を取った。― 26 ―

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