研 究 者:京都市文化市民局 元離宮二条城事務所 嘱託職員 中 野 志 保はじめに近世小説の一ジャンルである「読本」は、明(1368−1644)や清(1636−1912)で出版された白話小説(注1)を母体に、寛延期(1748−1751)の上方で発生し、文化期(1804−1818)には江戸を中心に隆盛、その流通は貸本屋を通して全国に拡がった。この読本は、数ページに一葉、見開きで挿絵が入るのが定型となっており、その様式史についての研究(注2)は、水谷不倒が、『古版小説挿画史』(大岡山書店、昭和10年[1935]刊)において、絵師および作品紹介を列挙することで、史的展開の概要を捉えてはいるものの、その作品記述は挿絵の印象を述べるにとどまり、造形上の具体的な特徴を捉えるものではない。また、読本以外のメディアが、読本挿絵の様式的特徴にどう関わるのかという観点からの研究は未見であることから、本稿では、読本以外のメディアとの影響関係を踏まえつつ、具体的に造形上の特徴を記述することによって、読本挿絵の様式展開の概要を語ることを試みる。そのため、まず第一章では、読本の嚆矢とされる『英草紙』(都賀庭鐘作、絵師不明)が出版された寛延2年(1749)から寛政期前半(1789−1795)までの読本挿絵は、当初、既存のメディアに倣う複数の様式が混在していたが、寛政期後半(1795−1801)の上方では、戯画風の飄逸な様式へと、読本挿絵が一定の方向性を持ち始めることを述べる。第二章では、寛政期後半、白話小説の挿絵を参照し上方で始まった「密画」と呼ばれる背景描写の手法が、文化期には江戸に伝わり、■飾北斎(1760−1849)が、これを自らの読本挿絵に取り入れてダイナミックな独自の様式を作り上げたこと、それが上方へも広まったことを述べる。第三章では、文化期後半になると、背景描写における「密画」はそのままに、人物の描写においては、合巻(注3)の様式を取り入れるようになることを述べて、本論の括りとする。第一章 様式の収斂─既存メディアの参照から飄逸さへ─読本の嚆矢とされる『英草紙』が出版された寛延2年(1749)から寛政期(1789−1801)前半までにかけて出版された読本挿絵の様式は、既存の分野の版本挿絵に倣う、複数の様式が混在する。例えば、上方では、上述した『英草紙』の挿絵〔図1〕は、橘守国(1679−1748)の絵手本(図2『絵本鴬宿梅』元文5年[1740]刊)と比べてみると、いずれも樹木や岩肌など自然の景物の表現や、画面全体の描き込みに、近い― 350 ―㉜ 読本挿絵の様式的特質とその史的展開
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