鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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― 351 ―雰囲気を感じる。すなわち、いずれも自然の景物は幾分か比較的密に描き込むが、画面全体では、後の時代の読本挿絵のような息詰まる程の緻密さや、淡泊な風情はなく、粗密のバランスがとれている。また、人物の衣服〔図1、2部分図〕は、平明かつ息の長い描線が丁寧に引かれており、顔の表情も豊かだが、決して大げさではない。精細な描写でありながら筆数は整理されており、劇的ななかにもゆったりとした典雅な気分のある画面となっていることからも『英草紙』の挿絵を画いた絵師が、橘守国の絵手本に近い描写の感覚を持っていたことが推測される。また、安永2年(1773)刊の読本『本朝水滸伝』(建部綾足作)の挿絵〔図3〕は、線が比較的太く、素朴な筆致で背景や人物が描写されており、読本が発生する以前に流行した浮世草子よりもさらに時代が遡る仮名草子の挿絵〔図4、作者不明『仁勢物語』下巻、寛永年間[1624−1644]刊〕を想起させる。両者〔図3、4部分図〕はいずれも太い線で樹木や土坡、山並みを描き、人物も、衣服や顔が、簡略的に表現されている。他に、『東遊奇談』〔図5、一無散人作、寛政13年[1801]刊〕のように、素人が描いたような、戯画的な飄逸さを感じさせる読本挿絵もある。こうした挿絵は、背景及び人物を描く線に速度と軽やかな動きがある。筆数は最小限に抑えられ、画面の多くに余白を残し、飄逸さのある様式となっている。こうした余白が多く、飄々とした雰囲気のある画面は、例えば、『幽闇世話』〔図6、湖中突瓢子作、天明7年[1787]刊〕のような、現在、滑稽本(注4)と呼ばれる小説ジャンルの挿絵に先行して見ることができる。この時期の読本挿絵は、画工名が記されないことも少なくないが、浮世絵師が読本挿絵を画く場合は、記名があることが多い。例えば、寛政8年(1796)刊行の『高尾船字文』〔図7、曲亭馬琴作〕は、江戸で美人画の名手として知られる栄松斎長喜(作画期:天明末から文化6年頃)が口絵を描いている。その登場人物は、従来、長喜が描いてきた黄表紙や洒落本等の挿絵〔図8、『祇園祭烑燈蔵』蘭奢亭薫作、享和2年[1802]刊〕と同じように、息の長い、比較的平明な描線で、しかもすっきりとした品のある描き方〔図7、8部分図〕である。このように、初期の読本挿絵においては、一定の方向性を持った様式的特徴が見受けられず、既存の多様なメディアの様式が、作品毎に選択されているという印象を受ける(注5)。また、この時期の読本は、先述の通り挿絵絵師の記名はまちまちであるため、絵師たちの活動を把握することも難しい。こうした状況から、初期の読本は、挿絵という視覚的要素よりも、文学的内容に重きが置かれていたことがうかがえる

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