鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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― 352 ―(注6)。しかし、寛政期の後半(1795−1801)に至って、上述した『英草紙』に見られるような、ゆったりとした典雅な様式と、『東遊奇談』に見られるような、淡泊で飄逸な様式を併せたような様式が、上方の複数の絵師の、複数の読本挿絵のなかに見られるようになる。すなわち、寛政期(1789−1801)半ば以降に活躍する、岡田玉山(1737−1812?)(注7)や、玉山に学んだとされる(注8)初代速水春暁斎(?−1823)等の絵師達の初期作品〔図9、10〕は、劇的な場面でありながら、必要最低限の筆を用い、飄々とした雰囲気が漂う。それまで、作品毎、あるいは絵師毎に異なっていた様式が、複数の絵師と作品に採用されるようになるのである。こうした動きは、玉山らのように、挿画した読本に署名を残し、また、ある程度まとまった数の挿絵を制作する絵師が出現してきたことと無関係ではないだろう。読本が、白話小説の翻案から脱し、「図会もの」や「絵本もの」(注9)といった幅広い主題を取り入れて平俗化を図り、知識人から一般の人々へとの読者層が拡大するに伴って(注10)、視覚的要素が重視されるようになったことが、こうした挿絵の様式の共有化や、挿絵絵師の署名の常態化に現れていると考えられる(注11)。第二章 「密画」の時代─上方読本における「密画」の導入と■飾北斎による展開─こうした寛政期後半の上方の読本挿絵に見られた淡泊で飄逸な様式は、ほどなく新たに生まれた「密画」の様式に凌駕されていく。「密画」とは、すなわち、モチーフや画面全体を緻密に描き込むという手法である。例えば、西村中和(生没年未詳)の『源平盛衰記図会』(寛政6年[1794]刊)の挿絵〔図11〕は「密画」の最も早い例に入る。ここでは、樹木、土坡、水の流れといった自然の景物〔図11部分図〕が、従来の版本挿絵には見られない程、緻密に描き込まれている。これによって、余白が生む飄逸さやゆったりとした風情が減少し、劇的な迫力は増す。しかし、画面上下にある雲形に大きく余白が残るため、後に現れる江戸読本の密画ほどの重さはなく、劇的な激しさのなかにも雅やかな風情が僅かに残されるのが特徴である。こうした画面への緻密な描き込みは、上方の読本挿絵全体に拡がり、先述した岡田玉山では寛政9年(1797)、速水春暁斎では文化2年(1805)以降に見ることができる(注12)。このような樹木や岩肌など自然景への緻密な描き込みは、『芥子園画伝』(注13)(笠翁編、康煕18年(1679)刊)〔図12及び部分図〕に代表される中国舶載の絵手本に先例があり、それらが参照された可能性がある(注14)。他方、江戸では、文化期(1804−1818)以降、上方と同様に長編の読本が出版され

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