― 353 ―ることとなり、加えて、登場人物を紹介する口絵が入る等、造本形態の面で独自の発展を見せた(注15)。江戸読本挿絵の第一人者と謳われた江戸の浮世絵師、■飾北斎(注16)は、上述した上方読本挿絵を参照しつつ、独自のスタイルを作り上げた。初期の『小説比翼紋』(曲亭馬琴作、享和4年[1804]刊)の挿絵〔図13〕では、従来手掛けていた狂歌絵本の人物描写に近い、華奢な人物を〔図13部分図〕穏やかな雰囲気の画面に描くが、文化2年(1805)刊の『新編水滸画伝』(曲亭馬琴作)の挿絵〔図14〕以降、身体の屈曲を強調して幾何学的な構図を作り上げ〔図14部分図1、2〕、打ち込みを強調した躍動的な筆遣い〔図14部分図2〕をすることにより、ダイナミックな動きのある挿絵の様式を作り上げた。そこには、背景を密に描き込む〔図14〕、上方読本挿絵の「密画」も採用されている(注17)。北斎描く読本挿絵が、全国的に絶大な人気を得たことは、他の絵師が描く読本挿絵に北斎に倣う描き方が急増することからも明らかである(注18)。例えば、江戸では、北斎門下とされる一峰斎馬円(?−1811)の『忠孝貞婦伝』(浜松歌国作、文化10年[1813]刊)の挿絵〔図15〕のように、樹木や石垣が描き込まれ、人物を描く描線は力強く、そのポーズ〔図15部分図〕も十字形にはめ込んだような幾何学的な構図をとる。文化期(1804−1818)以降の北斎の門下絵師の読本挿絵には、このような北斎様式の学習が顕著に見られる。それだけでなく、北斎門下の絵師以外にも、北斎を意識したと思われる変化がある。当時、歌川派の筆頭であった初代歌川豊国(1769−1825)の描く文化2年(1805)刊の『四天王剿盗異緑』(曲亭馬琴作)〔図16〕と翌3年(1806)刊の『昔語稲妻表紙』(山東京伝作)〔図17〕を見比べると、背景の描き込みは両者とも細かいが、人物の描線は、繊細な線〔図16部分図〕から、太く、打ち込みが強調された線〔図17部分図)に変わり、『昔語稲妻表紙』では、人体のポーズも、三角形に収まる形になっており、北斎様式への意識がうかがわれる。加えて、上方においても、文化期(1804−1818)以降は、挿絵における北斎様式の摂取が顕著になる。例えば、浅山芦国(作画期:1804−1819)の描く『大和国筒井筒』(浜松歌国作、文化14年[1817]刊)の挿絵〔図18、19〕は、打ち込みの強い抑揚に富んだ描線〔図18部分図〕を用い、樹木の表皮を魚の鱗のように緻密に描き込む〔図19〕という点で、「密画」をふまえた北斎様式に忠実である。この芦国は、上方の絵師の中でも最も熱心に北斎を取り入れた絵師であったが、文化期中盤の上方では、北斎様式を、全般的あるいは部分的に取り入れて、緻密に描き込まれた背景のなかに抑揚のある描線で人物を描く、劇的な躍動感のある読本挿絵が多く制作された(注19)。
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