鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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⑼ 「図会もの」とは、名所図会と同じ判型にし、精細な挿画を入れた読本のこと。タイトルの末尾に「…図会」と入る。安永9年(1780)に刊行された『都名所図会』(秋里籬島作、竹原春朝斎画)の流行に乗じて多くの名所図会が刊行された、その流れに沿ったもの。「絵本もの」も同じように、精細な挿画を入れ、読者の視覚に訴える要素をふんだんに盛り込んだ読本のこと。タイトルの冒頭に「絵本…」と入る。⑽ 長友千代治「第二章 上方読本の展開/三 上方読本の転進」(横山邦治編『読本の世界 江⑾ この時期、江戸読本には、こうした様式の統一は見られない。⑿ この密画をはじめた人物として、斎藤月岑『浮世絵類考』(前掲書、136頁)に「近世板刻の密画の開祖なり。」と挙げられるのは、西村中和ではなく、岡田玉山であるが、上述の通り、最も古い密画様式が確認されるのは、西村中和である。⒀ 『芥子園画伝』は、明末清初の文人、李漁(笠翁)が、王安節(鹿柴)のまとめた歴代名家の山水画法など、多くの画稿の模写を集めて康煕18年(1679)に出版したものである。日本には、元禄年間(1688−1704)に伝来したとされる。筆者は、『芥子園画伝 全訳』第3冊、「山石譜」(小杉放庵註解、公田連太郎訳文、アトリエ出版社、1972−74)を参照した。⒁ 上方読本挿絵が、中国舶載の絵手本を参照し「密画」の手法を作り上げたことは、拙稿「読本挿絵における北斎と上方絵師の交流」『北斎─風景・美人・奇想─』(大阪市立美術館編、2012)において詳述した。⒂ 濱田啓介「6近世小説本の形態的完成について」『近世文学・伝達と様式に関する私見』(京都⒃ 北斎は、享和4年(1804)以降34点の読本に挿絵を描いた。無名翁(渓斎英泉)『浮世絵類考』(由良哲次編『総校日本浮世絵類考』画文堂、1979、139頁)に、「繍像読本の差画を多く画きて世に賞せられ、絵入読本此人よりひらけたり」と記されることから、同時代においても高い評価を得ていたことが分かる。⒄ 北斎が、上方読本挿絵に見られる「密画」様式や、洋風版画への参照を自らの挿絵に継承して⒅ 北斎の作り出したダイナミックな読本挿絵の様式が、江戸と上方に拡がる様相については、拙稿「上方浮世絵における北斎受容─役者絵と読本挿絵を検証する─」(『浮世絵芸術』150号、国際浮世絵学会、2005)および博士論文『上方浮世絵史再考─北斎様式の「選択」を手がかりに─』(同志社大学大学院提出、2009)の「第三章 上方の読本挿絵における北斎学習」を参照のこと。⒆ 上方における北斎様式の摂取は、『増補浮世絵類考』(斎藤月岑編、天保15 年[1844]頃成立])に「京師浪花は悉く翁(北斎)の画風を学びて名を改めずといえども、門弟にならぬはなし、浪花発兌の絵本を見てこれを知るべし」(※括弧内筆者)という文言に端的に現れるように、現存作例のなかにもかなり広範に確認することができる。⒇ 鈴木重三『文化講座シリーズ9 合巻について』(大東急記念文庫、1961)■ 合巻の挿絵における役者似顔の使用は、鈴木重三前掲書注⒇や、板坂則子「第1章 馬琴合巻─化政期合巻と役者似顔絵」(『曲亭馬琴の世界 戯作とその周縁』笠間書院、2010)に詳しい。― 356 ―とある。戸と上方』世界思想社、1985、119頁)大学学術出版会、2010)いることは、拙稿(前掲注⒀、2012)において詳述した。

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