研 究 者:サントリー美術館 学芸員 柴 橋 大 典1.はじめに狩野探幽のやまと絵は「新やまと絵」様式として知られ、その減筆体とも称される、淡彩と広い余白を特徴とする瀟洒な表現は、当時「家法一変」とまで評された新しい様式だった。そしてこの「新やまと絵」様式はどのような形であれ、その後の近世絵画のあらゆる流派が意識せざるを得ないものとなっていた。従って「新やまと絵」の意義を問うことは近世絵画を語る上で最も基礎的な部分を構築することにもなると言えるだろう。一方でそれに対するこれまでの研究史の見解は、当世的視覚を経た漢画の和様化と評し、徳川幕府の政治的文化戦略と結び付ける傾向も強い(注1)。しかし、「当世風」「同時代的視覚」に言及しながら、その具体的内容については十分に把握されてきたとは言い難く、「新やまと絵」様式の同時代における相対的な位置づけが不十分であると思われる。そこで本稿は探幽絵画の構成原理が「当世風」、換言すれば当時広く共有された思想基盤とどのような関係にあるのか、ということについて考察することを試みるものである。2.「新やまと絵」様式と探幽評価の概観まず改めて確認すべきは、やはり探幽が淡墨草体の画様へと転じたことを指す「家法一変」の意義についてであるが、それについては榊原悟氏が詳細に論じている(注2)。榊原氏によれば、この「一変」に言及したのは狩野永納『本朝画史』を嚆矢とし、その意図するところは、それまで狩野派正系とされた漢画の墨線とやまと絵の色彩法を兼ねた金碧濃彩の画様を、淡墨草体へと一変させてしまったことへの批判であると言う。しかし永納はその「一変」の理由について、「なお一時の好みに従ふに足れり」「雪舟の奇蹤を慕ひて」と述べるに留まり(注3)、その背景などを推し量ることは難しい。また、この「一変」の語を受け継いだ『画工潜覧』『国画論』『絵事鄙言』『竹洞画論』『近世名家書画談』『画乗要略』などの画論は、著者ごとの美意識や立場を反映してそれぞれ評価が異なる上、時代も18世紀以後のもので、探幽と同時代の感覚をそこに見ることはできない。一方、画論以外の分野においては、探幽とほぼ同時代の評価がいくつか見られ、注目されるのは近世堂上歌論である(注4)。まず霊元院の『麓木鈔』には次のように― 360 ―㉝ 狩野探幽「新やまと絵」様式における「同時代的視覚」の問題
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