鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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― 361 ―ある(注5)。探幽が申たるは、絵はとかくつまりたるがわろきと申たる。まことに歌もさある也。ここでは探幽自身の言葉が垣間見られる点で貴重である。この「つまる」とは「物事の理屈をはっきり言い切ってしまっているかどうか」に関する語であり、探幽は理詰めに言いつくさない絵画表現を評価しており、それは和歌においても同様であるとされている(注6)。また『烏丸光栄卿口授』では、探幽は描く対象のみに精神を集中させ、雑多な要素を排除することで、よい絵が描けるということを中院通茂に伝えたという(注7)。中院家へ絵師探幽来る。故内府通茂公云、其方はいかにして絵をよくかくぞと被仰しに、御答、私が絵かき候は、月をかき候へば月に心を入、富士をかけば富士に心を入候に、未達の者は、梅又月、わらやなどをかくにも様々に心を尽し候故、尽く不出来に候と申ゆへ、内府公歌もかくのごとく也と光公に仰らる。この通茂の見解は『詞林拾葉』でも共通して語られている(注8)。上手の絵はいかにもすらりとしてことずくなにして、かかざる所にもえもいはれぬ余情、意味をふくめり。故内府通茂申されしは、「歌も絵のごとし。探幽が絵、松に月をかけば、かたはしより松の枝少し出し、ちよつと月をあひしらふ也。下手のは松をかけども枝多くかきなし、月も色々とくまどりやかましくかく也。それゆゑにかき尽して余情なし。探幽など絵は筆ずくなにして余情かぎりなし。歌も又かくのごとし」当時和歌論の中心をなしていたものは「まこと」論であり、正しき「まこと(=天理)」の心をもって捉えた対象の姿を、そのまま余計な要素を加えず表すことで、和歌上に天理にかなった世界の本質が体現されるとされていた。探幽の減筆体は、まさにそのような心を本位とした存在論・表現論の視覚化として高く評価されていたのである。また、時代は下るが、徳川吉宗によってなされた探幽評価が注目される。『徳川実紀』

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