― 364 ―法」の立場から、煩悩も菩提も「心」の問題として即の関係にあることを述べるものと指摘している(注16)。それは本覚思想を基盤に持ち、全ては心=仏性の現れであれば、心の在り方次第で煩悩も現世もそのまま悟りや浄土として立ち現われてくるという、心を主体とする存在論であった。次節でも触れるが、この本覚思想は東照社縁起に見られる徳川家康の神格化や、江戸幕府の政治思想の根底を担っていたことも指摘されており、近世初期において民衆から政治までをも規定した大きな思想基盤であった。となれば探幽絵画にも同時代的現象として「心」を主体とした美術表現の可能性も考慮する必要があるだろう。先に見た和歌のまこと論にしても、核となるのは歌がいかに「まこと(=天理)」より発せられたかであり、探幽の減筆体が、その視覚表象として評価されていたのである。この「まこと」論は儒教的な思想ではあるが、近世初期の儒教は仏教的な「心」で朱子学を説明するなど、心学的傾向が強いものだったことが指摘されている(注17)。以上のように見てみると、当時における「当世風」とは、世界をどう捉えるかということと、それに対応する「心」の領域が関わるものではなかったかと考えられる。探幽の余白表現もそこに反応したものだった可能性があるだろう。探幽の余白は、本来水墨画が持っていた理論的な空間の構築法を解体したことで、余白となった地の部分に強い余韻や余情が満たされることとなったとされるが(注18)、それは結果論的に「時代の好み」や「和様化」として認識されてきた。しかし、その余情表現にも一定の機能がある可能性が示唆されつつある。伊藤大輔氏は明恵上人樹上坐禅像について、その南宋絵画的な要素を指摘し、その叙情性が明恵に象徴される華厳の事的世界観を表現する際の格好のモデルを提供したであろうことを指摘している(注19)。それは華厳の事的世界観が言語以前の「情」の領域でしか到達できない直観的な体験世界であることに由来するからだという。これは三崎義泉氏の指摘する、諸法の実相に到達した境地を言語では言い表せない「幽玄」として表出する、本覚思想に基づいた中世芸道の「止観的美意識」にも通じるものと言えるだろう(注20)。探幽が従来の伝統を超えてまで追求した余白の美も、このような「情」や「幽玄」という、言語を超えた心の領域でしか感知し得ない、世界の本質を絵画に反映しようという試みだったのではないか。「探幽」の由来を記す『探幽斎之記』には、「探幽」とは「一切諸法のありようが縁起空・無自性空として夢幻空華のように現成していることを知ることによって、夢幻空華は夢幻空華のままで諸法の実相、即ち真如へと質
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