鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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― 365 ―的に転換すること」「己の心を空・無相・無作三昧の無自性空の幽微なるありようにかなうようにすること」として示されていることを鑑みれば(注21)、元より心に基盤を置く世界の本質の追求は探幽の基本理念だったはずである。この『探幽斎之記』には「幽微を探る」先達として玉澗・牧谿・明兆・雪舟が挙げられていることからすれば、本来はそのような画僧などが伝えていた、主客合一を旨とする伝統的な士大夫画論の踏襲で「幽微を探る」が達成されることが想定されていたのだろう。しかし、実際には筆法はともかく、画様としては呉派文人画的な「平淡」の方向を強め、画様を一変させるに至った。このことは、すでに伝統的手法では同時代的な感覚における「幽微を探る」に対応しきれない状況が生じていたことを示している。それが「人々が心に拠点を置く思惟を展開しはじめた」(注22)ことであり、主観と客観を貫く外在的な本質の追及というよりは、より心を全ての本位とするような表現が求められたのではないだろうか。そして、当時に言う「心」とは、「仏性」に帰属させられるものだったのであり、心=仏性において捉えたヴィジョンこそが世界の本質となる。それは言語超越的な心の領域として余情=余白に表象され、かつ、ヴィジョンの純粋化を図るため筆数を減らす。探幽の余白は、心を本位とした描写対象の実相への質的転換に他ならない。この余白の視覚表象の可能性を提供したのは当時流入しつつあった中国の画論や文人画系の絵画であったとも考えられるが、日本の側からは、本覚思想に基づく中世以来の芸道思想にすでに用意されていた。例えば心敬の和歌論『ささめごと』では、「田舎ほとりの人は、句の太みつまづきたるをも、色どり巧みなる事として、姿・言葉づかひの幽遠の句をばかたはらになし侍り」として装飾や技巧の作為を避け、理詰めに表現しないこところに幽玄が現れると説き、「理すくなく幽遠にけだかき句は、法身の当分なるべし。(中略)中道実相の心にあひかなへるとなり」とする(注23)。こうした美意識が探幽の筆数や彩色を抑え、余白を旨とする淡墨草体の画様の理論的根拠の一部となり、鏡山図(根津美術館蔵)〔図4〕のような中世の歌絵が視覚化モデルとして再生された可能性は十分考えられるだろう(注24)。以上のことから、この「心」本位の質的変換の視覚化の達成こそが探幽が「当世風」である所以と言えよう。「日常・俗なる世界」も「非日常・聖なる世界」にしてしまう、その点で確かに金地と余白は通じ合うところがあるが、意味に重点を置いた表出と、心に重点を置いた表出という点で決定的に異なるものでもある。そうした視点で改めて先の若衆観楓図を見てみると、「永遠なるものと限りあるものという二項対立を超越したところに現れる聖なる現世」がテーマとして立ち上がっ

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