― 373 ―その代表的な基本資料は、既に多くの先行研究で紹介されている円山派の画家、久保田米僊(1852−1906)の談話筆記が挙げられる。これによると、当時応挙が奉公していた玩具商尾張屋では外国製の眼鏡絵を輸入し、好評を博していた。しかし、輸入した眼鏡絵には限りがあるので、尾張屋の主人中島勘兵衛は、目先を変えるために、新たな眼鏡絵を制作するよう応挙に依頼したという(注2)。また、応挙の庇護者であった円満院門主祐常(1723−73)の筆録『萬誌』に「一、円山主水云正写弥以遠目鑑写良云々」、「一、円山云人物手足鏡ニウツシ我手足ヲモ可写以遠目鏡可写之云々」(注3)という記述があり、応挙がレンズを媒介し写生対象を見ていたことが推測されている(注4)。応挙作と極書のある眼鏡絵については、応挙の弟子である森徹山(1775−1841)によって「右先師応挙真筆証 森徹山」と記された画帖が存在し、未見であるが中国風景・京名所図5枚が貼り込まれているという(注5)。また、神戸市立博物館所蔵である肉筆直視式の《石山寺図》には、応挙の孫にあたる円山応震(1790−1838)による極書が「祖父真蹟 応震證 応 震」と本紙の外にある。そして後に詳述するが、同館所蔵の肉筆反射式眼鏡絵《京洛・中国風景図巻》にも、幕末から明治にかけて活動した四条派の画家、奥村石蘭(1834−95)による極書が見られる。次に、応挙筆とされる眼鏡絵に描かれた主題を分類し、「応挙眼鏡絵主題分類表」として本稿末尾に掲げた(注6)。それによると、応挙眼鏡絵は大きく分けて京名所図と中国風景図に二分され、京名所図はバリエーションが多いのに対して、中国風景図の種類はその半分以下であることがわかる。これは、中国風景図の方は輸入された版画や原画を直模したものと考えられるのに対して、京名所図はそれらをもとに京都の風景に当てはめ、独自に種類を増やしたためであると考えられる。そして、《鎮江樹林》〔図5〕や《三十三間堂通し矢図》など、現存数が多く繰り返し制作されている主題は、遠近法を強調した反射式の構図が多く見られる。それは、画面に奥行き感のある構図を用いることによって、観者がレンズを覗いた時に驚きを得やすいため、版画にして量産されたことが推測できる。また、この表では、主題の項目の隣に組の項目を作成し、そこには同じ組を成す眼鏡絵同士に同一の印を付した。表内の●印のある4点の眼鏡絵は、応挙眼鏡絵の基準作とされる肉筆反射式眼鏡絵《京洛・中国風景図巻》を構成し、他の◆印や■印の肉筆眼鏡絵と比較すると、突出して描写力が高いことが指摘できる。●印《京洛・中国風景図巻》とそれ以外の肉筆眼鏡絵を比較すると、●印以外は人物や建物の輪郭など細部の描き込みが弱いことから、それぞれが同じ手によるものとは考え難い。しかし、
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