注⑴ 岡泰正『めがね絵新考 浮世絵師たちがのぞいた西洋』筑摩書房、1992年、108頁。⑵ 久保田米僊「圓山應擧筆の眼鏡絵」『骨董協会雑誌』4、1899年、39−41頁。⑶ 『萬誌』の内容は、次の資料から引用した(佐々木丞平、佐々木正子「円山應擧関係資料」『円⑷ 岡、前掲書、107頁。成瀬不二雄「円山応挙論─特に西洋画法との関係について─」『論集日本⑸ 外山卯三郎『応挙洋風画集』巧芸社、1936年、4−8頁。⑹ 応挙筆とされる眼鏡絵の選別については以下を参考にした。源豊宗監修、狩野博幸ほか『円山⑺ 佐々木、前掲書、282頁。⑻ 黒田源次「円山応挙の眼鏡絵に就て」『西洋の影響を受けたる日本画』中外出版、1938年、42頁。⑼ 岡、前掲書、123−124頁。⑽ 岡、前掲書、116頁。⑾ 黒田、前掲論文、46頁。岡、同前。⑿ 岡、前掲書、150−151頁。⒀ 成瀬、前掲論文、30−33頁。― 378 ―が、眼鏡絵渡来以前の日本絵画ではほとんど見られない。久保田米僊の談話にあるとおり、応挙が最初に日本製眼鏡絵の制作を試みたのであれば、《京洛・中国風景図巻》にみられる洋風表現とそれを元にした木版眼鏡絵の制作は、後の日本近世洋風画の発端としての役割を果たしたといえるだろう。おわりに以上、本稿では今回の調査を踏まえ、主に作品記述のみにとどまったが、応挙の肉筆反射式眼鏡絵《京洛・中国風景図巻》を通観し、その洋風表現を見てきた。そこでは、陰影法や遠近法などの技術が使用されており、応挙以前にはこうした写実的な画面構成はほぼ見られない。おそらく、中国経由で入ってきた西洋の技法を応挙はいち早く会得し、それを最も身近な京都の風景に応用したと考えられる。しかし、成瀬不二雄氏も指摘するように、一見するとごく一部を除いて応挙のその後の作品で、こうした洋風表現の技術が活かされたのか判断は難しい(注13)。それは、応挙が陰影法や遠近法を絵画制作の技法としてではなく、これを眼鏡絵制作のための限定的な技術として捉えていた可能性を示している。今後、未見の作品を含めてさらなる調査を重ね、応挙はこうした従来の近世日本絵画の中になかった表現を後の自身の絵画制作にどのように反映させ、また同時代の洋風画家にどのような影響を与えたのかを課題としたい。山應擧研究』研究編、中央公論美術出版、1996年、447、451頁)。の洋学』2、清文堂出版、1994年、23−24頁。応挙画集』図版編、1999年、京都新聞社。
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