早期の舍利容器を理解する上でも意義があると思われる。漢訳された涅槃経典のうち、舍利の安置法に関する最も詳細な記述は『仏滅度後棺斂葬送経』(訳者、訳年代不明)等に含まれる。本経いわく、荼毘後の釈迦の遺骨は香汁で洗われた後、まず「金甕」に納められた。その金甕は更に六枚の石板で作られた三尺四方(厚さ一尺)の石函に納置され、その石函が塔に安置された(注4)。また、七世紀半ばに漢訳された『大般涅槃経後分』(若那跋陀羅訳、664−665年)には、舍利を安置するために、「七宝蓋」に伴われた「金」が用意されたこと、それとは別にクシナガラでは「七宝瓶」に舍利を納め、その瓶を更に「七宝塔」に安置して供養したことが記される(注5)。ここで重要なのは、経典にわずかに登場する舍利具が入れ子状を呈していること、また、塔を除いた舍利容器の形状が、「甕」、「」、「瓶」、あるいは函形など「kumbha」と「Drona」という遺骨としての「śarīra」に深く関わるキーワードに基づく(あるいは、それを連想させる)ものである点である。「kumbha」は古代インドで計量に使われた壺であり、経典中では「舍利八分」の際にドローナが使用した容器として登場する。この「分舍利」との関連から、「kumbha」は仏舍利のための容器を示す最初の語となる(注6)。一方、「Drona」は経典では釈迦の遺骨の分配を行なった婆羅門の名であるが、同時に箱形の計量器を意味する語でもあった(注7)。このことから『仏滅度後棺斂葬送経』のような記述は、遺骨としての「śarīra」の分配を連想させる壺形や函形の容器を入れ子にしたことを示し、舍利具を以て象徴的に舍利の由来を表現していたと理解できる。つまり、甕+函+塔の組み合わせは、(1)舍利の分配に使用された「kumbha」に納められた舍利が、(2)分舍利を担当した「Drona」に保持され、(3)礼拝(あるいは「埋納」)の場としての「stūpa」中に安置されている、というような構造となる。Michael Willis氏の研究が示す通り、インド、ガンダーラ地域、そしてセイロン島で舍利容器を表した語句には、器体が丸みを帯びていたと想像される器や函形の容器など、概して「kumbha」や「Drona」との関連が想起されるものが多いようである(注8)。東アジアにおいても、最も古い作例のひとつである河北省定県華塔塔址発見北魏太和5年(481)銘舍利具は、石函の外容器に壺状の瑠璃瓶を含む内容器を入れ子状に納置しており、塔+函+壺という舍利安置の最も基本的な組み合わせを継承していたと理解できる〔図1a、1b〕(注9)。さらに、記録に残る早期の舍利関連事業を概観すると、その際に用意された舍利具が、やはり経典の舍利奉納の記載を大まかに継承し、器体の丸い容器や函形の容器を― 383 ―
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