鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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組み合わせていたことが分かる。例えば、『釈迦譜』(僧祐著、梁代)によると、アショーカ王が八万四千舍利塔建立事業に際して準備させた舍利具は、金・銀・琉璃・頗梨で荘厳された「篋」を「宝瓶」に納置した二重のものであった(注10)。『南史』「扶南伝」によると、東晋の慧達が建立した木塔の舍利は金甖+銀坩+鐵壺+石函の四重舍利具に入れられており、それを梁武帝(464−549)が発見し、礼拝後に再埋納した際に新調した舍利具は金罌+玉罌+七宝塔+石函の四重であった(注11)。そして「舍利感応記」は、隋文帝の仁寿舍利塔事業の際に作られた舍利具が金瓶+瑠璃瓶+銅函+石函の四重であったとする(注12)。これらの例は、舍利具を入れ子状にするという発想の根源が、荼毘以前の遺体としての「śarīra」の納棺ではなく(あるいは、それのみではなく)、やはり遺骨としてのそれに関わる「分舍利」の場面にあったことを示している。しかし、涅槃関連の図様では「分舍利」の場面に表された「kumbha」と舍利容器の器形を明らかに区別する場合も多々あり、形への発想とその伝播の過程はより複雑であったことが分かる。中国の作例でも、陝西省藍田出土の石函や同省慶山寺の宝帳形石函などの「分舍利」の場面から、「kumbha」はガンダーラの作例より大振りの壺や、より口縁部の広い碗(あるいは鉢)のような容器としても想像されていたことが分かり、舍利を受け取る容器の形態も様々である〔図2、3〕。漢訳経典で「kumbha」や「kumbha」と形状が通ずると思われる容器の訳語として「」「甕」「瓶」等の微妙にニュアンスの異なる同義語が用いられていることは、東アジアにおける舍利容器の形状の多様性を考える一つの手がかりとなると思われる。これらの訳語は総称であり、丸い器体の容器を想起させるという点で共通している反面、器体を具体的に指定するものではない。このことは、仏典の教えに従いつつも、伝来した先例や土地土地の慣習、更には個々人の想像に任せて、かなりの振り幅をもって実際の容器をデザインすることができたことを示している。つまり、法隆寺五重塔心礎発見舍利具、慶尚道松林寺五層塼塔発見舍利具(国立慶州博物館蔵)、陝西省慶山寺発見舍利具等の最内容器である長頸瓶、そして仏国寺釈迦塔発見舍利具(国立慶州博物館蔵)や伝南山出土舍利具(旧小倉コレクション、東京国立博物館蔵)などの統一新羅時代の作例や、法隆寺、岐阜県山田寺、大阪府太田廃寺で発見された舍利具など七・八世紀の大和の作例に頻繁に見られる蓋付の鋺状内容器も、すべて究極的には「kumbha」のヴァリエーションとして概念的に繋がるものであったとも理解できる〔図4、5〕。― 384 ―

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