鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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上記の考察が提示するのは、翻訳という作業を通して新たに植え付けられてしまった(あるいは幅が広がってしまった)形への発想の存在である。だが、このような言葉を介した伝播や展開が、必ずしも「文字」を伴っていたわけではないことは言うまでもない。仏教が中国から更に東漸する段階で、翻訳された文字はモノや、より漠然とした「知識」へと変換されて伝播する可能性を絶えず内包し、例えば、飛鳥時代の大和へ辿り着いた時分には、器体の丸い舍利容器の「kumbha」への連想も、漢訳経典の具体的な訳語との繋がりもすでに意識されていなかったことは十分あり得る。しかし、百済、統一新羅、そして奈良時代の大和において、器体の膨らんだ壺または鋺状の容器が、舍利容器に加え骨壺としても好んで使われていたようであることは、少なくとも、このような形状が荼毘という仏教的な葬送儀礼によって変化を遂げた身体に最も相応しいものであると認識されていたことを示している。では、インド/ガンダーラで前例のない新たな舍利容器の形状が現れた場合はどうか。すでに知られている通り、七世紀後半頃を境として中国では、いわゆる「片流れ式」の棺形が舍利具の一部に用いられるようになる〔図6a−c〕(注13)。この舍利信仰の新たな展開は、土着の葬送儀礼が取り入れられたことによって生まれたものであると考えられている(注14)。確かに(上述の通り)現存するインド/ガンダーラ地域の舍利具においては「棺」と「舍利容器」が混同されることはなかった。しかし、中国固有の「片流れ式」の棺形が舍利具に取り入れられる過程を考える場合に、中国の涅槃関連図様では比較的早くからこの棺形が釈迦の納棺の場面に登場していた事実は重要と思われる。この点はシカゴ美術館蔵西魏大統17年(551)仏碑像涅槃図にすでに明らかである〔図7a、7b〕。つまり「片流れ式」の棺形が涅槃図に現れ始めてから、その形状が舍利具に採用されるまでには、約一世紀の時間差があるということである。再び涅槃関連の漢訳経典に戻ると、釈迦の遺体のための容器は「棺」「槨」と訳されていることが分かる。これは中国で「棺」や「槨」と称されていた「片流れ式」の棺を釈迦の遺体の「入れもの」として採用することが、経典が伝える釈迦の指示に基本的に沿ったものであったことを示している。そして大統17年仏碑像などの先例が示すのは、この棺形が舍利具に採用されるようになる頃には、その形状はすでに図様を通して釈迦の納棺のイメージと繋がっていたということである。つまり唐代の舍利信仰においてśarīraの遺体/遺骨としての両義性がより強調され、それが舍利容器自体のデザインに反映されるようになった際に、「片流れ式」の棺形が釈迦の遺体として― 385 ―「形への発想」の展開:新たなイメージの形成

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