― 393 ―㊱ 藤田嗣治 初期絵画制作におけるギリシア舞踊習得の影響 ─藤田留学、妻とみ宛て書簡資料を手がかりに─研 究 者:舞台演出家 美術史学会会員 舞踊学会 日本演劇学会会員 早稲田大学大学院 文学研究科 博士後期課程修了(博士・文学)はじめに藤田嗣治(レオナール・フジタ1886−1968)は第一次世界大戦後のパリ画壇において「素晴らしき乳白色の下地」による裸婦像で名声を確立し、エコール・ド・パリの代表的画家として活躍する。中南米を長期滞在旅行の後に1933年帰国し活動の拠点を日本に移すが、第二次世界大戦後は日本を離れフランスに戻り、帰化してキリスト教の洗礼を受け日本に戻ることなく1968年に亡くなる。本研究は60年以上に渡る藤田の画家活動の初期、いわば「修行時代」である1913年渡仏直後の約1年間に、画家・川島理一郎とともに舞踊家レイモンド・ダンカンのアカデミーでギリシア舞踊を習得したという事実に焦点をあてる。藤田が習得したギリシア舞踊がどのようなものであり、それが藤田の初期絵画制作にどのように影響を与えたかについて、先行研究の指摘を踏まえながら、妻とみ宛て書簡資料調査及びフランス現地調査を基にして研究及び考察を進めていくものである(注1)。1.藤田嗣治渡仏初期1910年代研究藤田の渡仏初期1910年代に関する研究は、現存するこの時期の作品が少ないために画家没後の1970年代から1990年代にかけて進展があまりなかった。1980年代後期に藤田が妻とみに宛てた約180通の手紙が確認され、関係者の調査、整理によって2003年から翻訳・出版されたことを契機として進展することとなる(注2)。湯原かの子「藤田嗣治のパリ修行時代─妻とみ宛書簡と初期作品─」(注3)、林洋子「藤田嗣治の1910年代:エジプト・ギリシア・先史時代 同時代の文字資料を手がかりに」(注4)において、妻とみ宛書簡を基にした藤田の渡仏初期1910年代研究の論考が掲載される。2006年に東京国立近代美術館他で藤田の初の回顧展となる『生誕120年藤田嗣治展』、続いて2008年に『没後40年レオナール・フジタ展』が開催され、その後に石尾乃里子「藤田嗣治とモディリアーニ―交友と影響関係を中心に」(注5)、佐藤幸弘「藤田嗣治の初期風景画について─1910年代の作品について」(注6)で、1910年代の佐 野 勝 也
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