鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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2.妻とみ宛書簡におけるギリシア舞踊習得― 394 ―人物画そして風景画に焦点をあてた研究が発表される。また、1910年代から20年代の滞仏時期の藤田作品に焦点を当てた「フジタをめぐる図像の継承と変容」を著した村上哲は2013年に熊本県立美術館他で『藤田嗣治渡仏100周年記念レオナール・フジタとパリ1913−1931展』を企画統括し、開催された展覧会において貴重なとみ宛の書簡の実物も数十点という数で公開された(注7)。藤田のとみ宛の書簡が公開されその研究が進んだことにより、藤田の渡仏初期の1910年代の画家活動は、1913年渡仏しパリで第一次世界大戦勃発パリ、ドルドーニュ地方、ロンドンに滞在という1913年8月から1916年までの前半期と、ロンドンから戻り再びパリに戻りフランス人女性フェルナンド・バレーと出会い1917年3月に結婚して以降の後半期と二つの期間に区分される(注8)。藤田のギリシア舞踊習得は、この渡仏初期修行時代の前半期における最も重要な経験のひとつであるが、藤田は1920年代以降、生前においてギリシア舞踊習得に関して何も語らなかった。妻とみ宛て書簡によってはじめてその事実がわかったのである。現在確認されている妻とみ宛て書簡179通に関して、藤田のギリシア舞踊習得という視点に立って検証した結果を添付の資料表にまとめた。また、藤田のギリシア舞踊を多角的に考察するために、舞踊及び劇場芸術という視点から藤田の芝居、オペラ等の劇場鑑賞も分析する。資料表に基づきながらギリシア舞踊習得の経緯及び書簡が交わされた1916年迄をみていこう。渡仏後のこの3年5か月間を更に5区分する。第Ⅰ期、藤田がパリに到着し川島理一郎と出会い意気投合し、ギリシア舞踊を習い始めたパリでの生活(書簡43迄)。第Ⅱ期、1914年4月にモンフェルメイユにあるギリシア舞踊のアカデミーの場所に土地を購入し川島と共に始めるギリシア式生活(書簡63迄)(注9)。第Ⅲ期は、第一次世界大戦が勃発、日本に帰国しないでパリに留まる1914年8月末から1915年5月迄(書簡122迄)。尚、川島は胸を患いスペインに1915年1月末から4カ月間療養滞在する。第Ⅳ期は、川島がスペインから戻り1915年6月からドルドーニュ地方に疎開しての川島との共同生活。続いて1915年10月3日に川島がボルドー港からアメリカに渡航後、藤田一人での疎開生活、年末にパリに戻りロンドン行き準備(書簡162迄)。第Ⅴ期は、1916年年頭からのロンドン滞在(書簡179迄)。藤田のギリシア舞踊習得の視点に立つと、渡仏直後に川島と出会い、パリ市内のギリシア舞踊アカデミーに通い始め、モンフェルメイユで土地小屋を購入し共同生活を

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