鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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― 395 ―行うという第Ⅰ・Ⅱ期の約1年間が中心となる。「皆画家の様な芸術家許り(…)川島は中々先輩で上手だ。(…)皆ダンスの形が昔の画昔の彫刻となってゝつまり線の尤も美しいもの許りで出来てるダンス、これを知らねバ本当の画は出来ぬ、(…)自分でもやって見て根本からエジプトもギリシアもあの神の様な尊い美術を研究する事にした。」(書簡17)「川島は二年級、自分は一年級二人とも級中で目立って上手だ、二級には川島が一、二番の上手さで一年級の方では自分が一番の上手、外の奴はたゞ踊る丈けで自分達は彫刻やら画やらを研究してる丈けに形のミ気をつけ又ダンスの意味もしつておどる故よく出来るのだ。(…)画の上に及ぼす人間の形の美化さるゝ点つまりエジプト、ギリシアの美術のよく分る事、非常によくためになり(…)」(書簡20)「寒中ストーブもなしで只一枚のギリシアの着物(コスチューム)で裸足でタヽキや板の間をとび廻るので汗が出る、(…)このダンスで昔のギリシアの図エヂプトの画に非常な利益を得てる、(…)」(書簡24)「ギリシアダンスの大将レイモンダンカン氏がギリシアより帰って来て、中々賑かになった。アカデミイへ大きなギリシアの柱を川島と画いてくれとて二本かいたりした。(…)ギリシアダンスは全く芸術的の空気ですっかり自分達は力にされる。自分達ハそれより外に天職の大なるものかある、しかし日常の生活周囲が自分の趣味自分の空気芸術であれバある程神聖になる、それ故田舎の流行もない軽薄でもない処で枯木で飯をたべて画をかくと言ふ事にした訳、こゝでは直ぐそれが又評判になる。日本人と言ふ丈けに眼立つ。又西洋人にない頭が日本人にあるから自然に出来たものは全く異った訳である。すべてすべての今の生活は全の画より外ない。其の画が益々神聖になる様にとしてすべての生活を俗界から離れてる、とミ子もよくそこを分ってむらいたい。(…)」(書簡46:モンフェルメイユ)少しだけ例を挙げたが、藤田は妻とみに、時に挿絵も描いて丁寧にギリシア舞踊やギリシア式生活に関して文字に綴っている。大戦後勃発して1914年8月末にギリシア舞踊アカデミーは一番弟子のベトロードが出兵して閉鎖となる。しかしながら、第Ⅳ期のドルドーニュ地方での川島との疎開生活において二人だけのギリシア舞踊とギリシア式生活の実践をし、また第Ⅲ期第Ⅳ期ではたとえ二人は離れていてもいつかアメリカでギリシア舞踊学校設立して成功しよう等と川島と手紙でやりとりしている様子等を藤田は妻とみに報告している。様々な場面でギリシア舞踊及びギリシア式生活が藤田にとって絵画制作のつぎに重要なことのひとつであり、藤田のギリシア舞踊習得において傍らに兄のように精神的なパートナーである川島理一郎の存在があったこともまた重要なポイントであろう。芝居やオペラの観点から妻とみ宛て書簡を読んでみると、藤田の舞台芸術への関心

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