鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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3.レイモンド・ダンカンのギリシア舞踊― 396 ―がただならぬものであることが分る。パリに到着直後の書簡9から第一次世界大戦勃発直前の書簡60までの48通の書簡のうち、11通の手紙に観劇した『カルメン』『ファウスト』『トスカ』等の演目の感想、特に感動した演目は妻とみに粗筋を書き綴っている。また、簡単な劇場鑑賞報告や芝居舞台を引き合いに出した文章を数えてみると12通となる。48通のうちの約半分にあたる23通に芝居やオペラに関する記述があることは注目に値することであり、藤田の日常生活において舞台芸術、劇場文化はその一部であったと考えられる。大戦が始まり軍事下でオペラ座やコメディ・フランセーズ等全ての劇場が閉鎖されてからの書簡には芝居やオペラの話題は少なくなるが、トロカデロの特別オペラ上演『リゴレット』を観に行ったことや、ドルドーニュ地方での生活でも蓄音機でオペラを聴くことが記述され、藤田にとっては劇場芸術が相変わらず身近な存在だったようである。藤田と川島が心酔する舞踊家レイモンド・ダンカン(1874−1966)のギリシア舞踊にふれていこう。藤田のギリシア舞踊について語るとき、そのギリシア舞踊は、ギリシアやエーゲ海地域の民族舞踊を意味するのではなく、「レイモンド・ダンカンのメソッドに基づくギリシア舞踊」であることをまず確認しておきたい(注10)。レイモンド・ダンカンは、20世紀の舞踊改革者でモダン・ダンスの始祖とも称される舞踊家イザドラ・ダンカンの次兄にあたる。1899年ダンカン一家は生まれたアメリカの地からイザドラと一緒にヨーロッパに渡る。最初はロンドン社交界のサロンで踊りながら、イザドラが有名になると彼女と一緒にヨーロッパを回り活動を手伝う。イザドラに最も影響を与えたのが次兄レイモンドであり、彼は思想家でも教育家でもありイザドラの精神支柱でもあったといえよう。「ギリシア古代精神に帰れ」という思想をイザドラに吹き込んだのも彼であった。1903年ダンカン一家は念願であったギリシアに行き、古代そのままの生活をする。彼らはギリシアに心酔したが現実には厳しい生活で生活費用を稼ぐためにイザドラはヨーロッパ公演活動に戻るのであった。レイモンドは踏みとどまり、ギリシア女性ペネローペと結婚し、古代ギリシア風のライフ・スタイルを追求するためのコミューンをつくる。畑を耕し、自ら糸を紡ぎ織物を織るという原始的な生活が実践された。舞踊家、デザイナー、舞台美術家、画家、写真家でもあった彼は総合的芸術家であったといえよう。レイモンドは古代ギリシアの音楽を復元しようとし、ギリシアの壺絵に描かれた姿態的動作を模範にして身体的体操そしてダンスのメソッドを考案していく。レイモンドの徹底した修行僧のようなギ

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