鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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4.藤田初期絵画制作におけるギリシア舞踊習得の影響― 397 ―リシア式生活に対し、イザドラは次第に距離を置くようになっていく。本研究において「パリ留学初期の藤田嗣治」研究会の幹事であった千葉県茂原市の加藤時男氏本人から妻とみ宛書簡集の報告書4冊が完成に至るまでの御話を伺い、書簡に同封されていた藤田が撮影した写真や絵葉書等のヴィジュアル資料を提供していただいた。また、2014年2月にフランス現地で取材し2009年パリ・ブルーデル美術館で開催された「ISADORA DUNCAN UNE SCULPTURE VIVATE」展の資料調査及びモンフェルメイユ現地調査を行った。先にレイモンドのギリシア舞踊はギリシア美術を模範としギリシアの壺絵のポーズを再現したような平面性を強調したものであったと述べた。それは当時のイザドラの自由奔放なダンスとはかなり舞踊として違うものであったといえよう。舞踊は身体の芸術と同時にイフェメラルな芸術であるために、舞踊そのものを文字で表現することは極めて難しい作業である。レイモンドのギリシア舞踊についても、これまではその概念とわずかな写真から想像することしできなかったが、 「(…)こんな風にして歩いて横をむいて前後にむく非常に難しい形で迚ても十辺や二十辺で出来るものでなく王の投やりやら戦争の処やらいろいろ形にあるので五間も六間も飛ぶ様に走るのやらそうしてその足音がトントンノトン、とか皆時間に定まりがあつて音楽に合してるので非常にいゝもの(…)自分も形も動くのも上手になった。」(書簡31)藤田のこのように自分の習得しているギリシア舞踊に関して詳細に説明している妻とみ宛ての書簡は1913、14年当時のレイモンドのギリシア舞踊を文字表現した貴重な資料といえる。また、この文字資料をもって展覧会で公開された集団の練習風景写真〔図1、2〕と藤1910年レイモンドはソフォクレス作『エレクトラ』を基にした舞踊劇を創作してアメリカ公演を行い、その後パリで公演をする。レイモンドと妻ペネローペはそのままパリに留まり1911年サンジェルマン・デュプレ地区にギリシア演劇と舞踊のアカデミーを開校する。レイモンドはギリシア滞在から変わらぬギリシア風の衣服とサンダルというスタイルでパリの街頭で辻説法をはじめ、同年アメリカからパリにやってきた川島理一郎がレイモンドに感銘し弟子入りをするのであった。また、設立時期は特定できないがパリ市内のアカデミーが軌道に乗った段階で、レイモンドはパリ東郊外のモンフェルメイユにより生活に根差したコロニー的なアカデミーを設立する。そして、1913年8月渡仏直後の藤田は、レイモンドのようにパリの街頭で辻説法をしていた川島に出会い、二人は意気投合の仲となる。

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