― 399 ―なスタイルの延長にあるような人物画を描いてみたりと試行錯誤を繰り返していた。それはまたギリシア式生活をしながらのギリシア舞踊習得のなかで、ある意味では自分自身の踊りを極めようとした踊る藤田自身という前半期を経て、一度はその経験した舞踊そのものまで忘れるくらいの時を経たからこそ踊りを、そして身体を、そして自分自身をかなり客観的に自分独自のスタイルで描こうとする姿勢が生まれたのではないだろうか。ギリシア舞踊習得の影響は渡仏初期修行時代後半期の藤田の絵画制作の大きな要因のひとつであることもまたいえるであろう。おわりに藤田は、渡仏初期修行時代の後半期に《La Danse(踊り)》または《La Danseuse(踊り子)》《Les Danseuses(踊り子達)》等、タイトルからそのまま舞踊に関係する作品を描いており、その何枚かはバレエのダンサーを描いた作品を残している。また1924年パリのシャンゼリゼ劇場でバレエ・スエドワの作品や1946年東京帝国劇場での日本人ダンサーによる『白鳥の湖』全幕初演の舞台美術を手掛けている。藤田の修業時代前半期のバレエ・リュス観劇に関しては1913年川島とのロンドン旅行の時芝居の合間に一度、そして1914年6月に2回に渡って妻とみ宛書簡においてパリで観て想いを綴っているが、バレエ・リュスに満足しておらずかなり批判的な内容になっている。1913年8月末のバレエ・リュス南米ツアーの途中で天才ダンサーのニジンスキーは結婚してしまい11月にディアギレフから解雇された。そのため藤田は残念なことにニジンスキーを観ることができず、藤田の観た時期のバレエ・リュスはある意味で低迷期にあったのだが、それ以上に前半期においてはレイモンドのギリシア舞踊だけが藤田の一番の舞踊芸術だったとも考えられる。バレエ・リュスに関連するならば、舞台美術を手がけたピカソのことを藤田は17年振りに帰国した際に刊行した1929年刊行の随筆集『巴里の横顔』「第15章パリの畫家」でピカソを取り上げ、その最後の処で、「彼が、舞臺装置に手を出したのは、一九一二年である。それからロシア舞踊の舞臺を毎年やつてゐる。」と記している。藤田のくせのある手書きの漢数字「七」と「二」は出版刊行の誤植である可能性が大きいとおもわれる。事実、ピカソが舞台美術を手がけたのは1917年5月18日初演のされた『パラード』からである。藤田も親しかったジャン・コクトーが台本、音楽をエリック・サティーが担当しバレエ・リュスはこの作品からモダニスムを追求すると称される通り、賛否両論のパリの話題をさらった作品である。その『パラード』初演の日の翌月藤田の第1回個展が開催されている。そして第1回の個展にピカソが来訪し
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