鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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3時間藤田の作品を見ていたことを藤田自身が語っている(注10)。今回の調査をしながら、妻とみ宛て書簡のなかで舞踊と自身の絵画製作との関連がロンドン滞在においては一度記憶の隅に片付けられていたものをもう一度思い出させる動機のひとつとしてバレエ・リュスでのピカソ舞台美術の成功ということが可能性として考えられる。本研究「藤田嗣治初期絵画制作におけるギリシア舞踊習得の影響」の次への課題として取り組んでいきたい。注⑴ 本論文では「舞踊」で表記を統一する。ダンスの日本語は「舞踊」と「舞踏」があり、以前は社交ダンス等ステップ系ダンスを「舞踏」と表記することが慣例的だったが、近年「暗黒舞踏」がヨーロッパで「butoh」と認知されているために現在舞踊学会では通常「舞踊」での表記の傾向がある。尚、舞踊学会ではダンサーの日本語表記も実際の原音に近い表記での統一となり、本論文においては「イザドラ・ダンカン」「イザドラ」で表記を統一する。⑵ パリ留学初期の藤田嗣治研究会編『藤田嗣治書簡─妻とみ宛』第1-4巻、2003-04年。資料表もすべて『藤田嗣治書簡─妻とみ宛』第1−4巻を基本としており、本文中の藤田嗣治妻とみ宛書簡の引用に関してはこの資料表の資料番号に一致させている。⑶ 湯原かの子「藤田嗣治のパリ修行時代─妻とみ宛書簡と初期作品─」パリ留学初期の藤田嗣治研究会編『藤田嗣治書簡─妻とみ宛』(以下書簡と表記)第1巻、2003−04年、159−168頁。また湯原氏は研究を継続;湯原かの子『藤田嗣治 パリからの恋文』新潮社、2006年。⑷ 林洋子「藤田嗣治の1910年代:エジプト・ギリシア・先史時代 同時代の文字資料を手がかりに」書簡・第2巻、159−168頁。また林氏は研究を継続;林洋子「第1章パリ美術界と出会う─キュビスムからプリミティヴィスムへ」『藤田嗣治 作品をひらく』名古屋大学出版会、2008年、20−45頁。⑸ 石尾乃里子「藤田嗣治とモディリアーニ─交友と影響関係を中心に」『紀要2009』北海道県立⑹ 佐藤幸弘「藤田嗣治の初期風景画について─1910年代の作品について」『美学美術史論集第⑺ 村上哲「フジタをめぐる図像の継承と変容」『研究紀要2012第12号』熊本県立美術館、2012年、⑻ 林洋子「第1章パリ美術界と出会う─キュビスムからプリミティヴィスムへ」『藤田嗣治 作品⑼ 川島の方はヴェルサンジェトリクス3番地のアトリエはそのままにしており、パリ市内で遅くなるときは川島のアトリエに宿泊していたと推測される。第一次世界大戦勃発してモンフェルメイユの小屋が兵站作業のため解体後約1か月間藤田は川島のアトリエに居候する。⑽ レイモンド・ダンカンに関しては以下の文献、論文を参照:Duncan, Dorée et al. Life into Art Isadora Duncan and Her World, W.W. Norton, 1993. 海野弘「1920年代のモードと舞踊」『1920年代の巴里より川島理一郎、ゴンチャローヴァ、ラリオーノフ展図録』資生堂、1995年、19−22頁。海野弘『モダンダンスの歴史』新書館、1999年、38−52頁。Laffon, Juliette et al. ISADORA DUNCAN UNE SCULPTURE VIVATE, Musée Bourdelle Paris-Musées, 2009.― 400 ―35−56頁。美術館他、2009年、49-65頁。十九輯』成城大学大学院文学研究科、2011年、269−289頁。をひらく』名古屋大学出版会、2008年、23頁。

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