鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
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― 405 ―12世紀中頃に活躍していた奈良仏師というと、康助や康慶ということになり、彼らが造像したことのわかる現存作例は、金剛峯寺大日如来像(久安4年〔1148〕、康助作)、長岳寺阿弥陀三尊像(仁平元年〔1151〕、康助・康慶周辺の作)、北向山不動院不動明王像(久寿2年〔1155〕、康助作)、瑞林寺地蔵菩薩像(治承元年〔1177〕、康慶作)などが挙げられる。この頃の奈良仏師には、長岳寺像や北向山不動院像にみられるような充実した張りの強い肉取りや玉眼の使用など、それまでの定朝様とは違った表現が用いられている一方で、妙法院千体千手観音菩薩像(長寛2年〔1164〕)のように温雅な雰囲気を示した像も制作していた。京都仏師との差別化をはかるために一方で浄瑠璃寺には、九体阿弥陀像よりも制作年代が遡る薬師如来像が現在三重塔に安置されている。この薬師像については浄瑠璃寺像の制作年代を考えるなかで、当寺にほど近い随願寺(東小田原寺、廃寺)からの客仏で、随願寺草創の長和2年(1013)作とする説も提出されている(注9)。しかし、その作風や構造、そして浄瑠璃寺や随願寺の寺史も勘案し、永承2年の浄瑠璃寺創建期の作で、当初からの本仏であった可能性が高いと考えられる(注10)。したがって、九体阿弥陀像あるいは中尊像が浄瑠璃寺創建当初の作であったとはみなしにくい。このような見解は近年の研究において一致している。薬師如来像が当初からの本仏であったとすると、九体阿弥陀像の制作は浄瑠璃寺創建の永承二年以降ということになる。従来、九体阿弥陀像の制作には莫大な財力が必要と考えられ、浄瑠璃寺史において、同寺に関与した人物の中で造像が可能なのは、興福寺一乗院の恵信のみと考えられてきた。恵信は藤原忠通の息子で、久安6年(1150)に小田原に隠遁し、浄瑠璃寺を一乗院の祈願所とし、寺観を整え池も掘った人物であることが『流記』に記されている。その後彼は保元元年(1156)に法印になり、翌年には興福寺別当に就任していることが知られる(注11)。また、室町時代に書写された東京大学史料編纂所所蔵『興福寺年中行事』は、原本が13世紀末〜14世紀まで遡るもので、9月25日には「伊豆僧正御忌日事」とみえる(注12)。このことから、その頃興福寺で恵信の忌日にちなんだ仏事が行われていたと想像され、同寺にとって重要な人物であったと考えられる。当時、興福寺に関わる造仏は奈良仏師が担っていたことは周知のことで(注13)、恵信の立場を考慮すると、浄瑠璃寺が恵信の関与で一乗院の祈願所になり、九体阿弥陀像ないし脇尊像八体を追加造像した場合、その造り手は奈良仏師であったと考えるのが普通であろう。

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