鹿島美術研究 年報第31号別冊(2014)
416/620

― 406 ―(2)九体阿弥陀像の制作年代先進的な造形が生まれた可能性も指摘されており(注14)、その頃の奈良仏師は定朝様的なものから新しい表現を用いた像まで造像可能であったと考えられ、浄瑠璃寺像もその造形の範囲内といえなくもない。しかしながら、浄瑠璃寺近くにあった中川寺十輪院(廃寺)伝来の毘沙門天像(応保2年〔1162〕)は、玉眼の使用や構造、作風から、康助ないしその周辺の仏師による作の可能性が考えられている点が注目される(注15)。また、同じく中川寺の成身院には康助作の金剛界大日如来像が本尊として安置されていたことがわかっており(注16)、この像は円成寺大日如来像(安元2年〔1176〕、運慶作)の直接のプロトタイプかとも想定されている(注17)。さらに、中川寺の造営には恵信の祖父にあたる藤原忠実を中心とした摂関家の密接な関わりがあったともいわれ(注18)、恵信の父忠通も堂内に懸けられた両界曼荼羅背壁の障子の色紙形に銘文を書いている(注19)。浄瑠璃寺の近隣寺院で奈良仏師によって新しい技法を用いた造像が行われ、しかもその造営に恵信の父・祖父が関わっていたことを踏まえると、浄瑠璃寺像が恵信によって造像された場合、それらの像は奈良仏師が制作を担当し、しかも何らかの新しい技法が用いられていたと考えられる。それが、井上英明氏が12世紀後半以降の表現と指摘する、2号像の脚部にみられるようなV字状の衣文表現かとも思われるが(注20)、井上氏が示した類例を検討してみても、12世紀後半の京都・三室戸寺阿弥陀如来像〔図2〕が最も近いV字表現を示しているものの、大体は写実表現の範疇に収まるように感じられる。奈良仏師の作風が徐々に写実に向かう中で、2号像にみられるそれは写実表現とは言い難く、浄瑠璃寺像と先に挙げた12世紀半ば頃の奈良仏師の作例とを比較してみても、同じ如来形である長岳寺阿弥陀如来像〔図3〕にみられるような張りのある体軀や、彫りをやや深く刻んだ衣文線などの表現とはやはり趣が異なっている。したがって、12世紀半ばに活躍していた奈良仏師が浄瑠璃寺像の制作に関わっていたとは考えにくいと思われる。浄瑠璃寺像に12世紀半ばの奈良仏師の関与を認めがたいとすると、恵信による造像とするのは躊躇される。奈良仏師以外の仏師による作という可能性も有り得るが、奈良・外山区阿弥陀如来像〔図4〕や興福寺釈迦如来像〔図5〕といった、11世紀末から12世紀前半頃の作で南都文化圏内に伝わる像と比較しても、浄瑠璃寺像の脚部の衣文表現などはまだ形式化していないようにもみえるため、制作年代をその頃まで遡らせて考えることも可能なのではないだろうか。

元のページ  ../index.html#416

このブックを見る